前回記事と、続けて『JOKER』の記事になります。前回の記事では『JOKER』を実際に見た感想と、「なぜR指定を受けたのか?」のかについて考察していきました。
『JOKER』について世間の評価をみると、『暗い映画』『陰鬱』『格差社会への皮肉』『狂気的』等の、まさに『悲劇』の面を多く見かける気がします。
実際のところ、そういった印象を受けるのは至極真っ当で、作り手もそう描いてるのだから仕方がありません。
しかし、中には劇中ジョーカーが言うように『悲劇と喜劇』がしっかり描かれています。その数少ない『喜劇』、というより『箸休め』のシーンと悲劇のシーンについての考察をしていきたいと思います。
目次
箸休めポイント:ブルース・ウェインとの出会い。
『JOKER』という作品で、初めて『DC作品』に触れたという人は多いと思います。
皆さん、ブルース・ウェインを誰だか知っていますか?ブルース・ウェインはバットマンの正体です。『バットマン』の設定では彼がバットマンになるのですが、『JOKER』では少年として描かれています。
『バットマン』とは正義の執行人。MARVELのヒーローのようにあまり表にでず、常に仮面をつけ仏頂面で正義を執行します。
ブルース・ウェインは『バットマン』でいる時、一切の笑顔は見せません。常に厳格で犯罪者に対して、暴力を振るうことをいとわず、逃しません。
そんな『ジョーカー』とは正反対で、ライバル的な存在の『バットマン』は今作『JOKER』では登場しませんでした。
しかし、ブルース・ウェインは少年として登場を果たしました。
主人公アーサーが母の過去の真相を解くため、トーマス・ウェインの館に尋ねた際、門前でブルース・ウェインと遭遇。
手品で気を引き、「君は笑っていた方がいい」と無理やり頬を押し上げました。
DC作品を他に知らない人から見ると、このシーンは、かなり難解。『アーサーの子供が好きな善の心』が描かれているだけのように思えてしまいます。
確かに『アーサーの残った良心』や『ジョーカーとウェインを隔てる壁=絶対に越えられない経済的格差』を描いてはいますが、ここは『箸休め』と言ってもいいシーンです。
いつも仏頂面のバットマンと、ヘラヘラしているジョーカー。会う度にバトルになる2人の貴重な『何も起こらない』時間でした。
このシーンは『バットマン』と『JOKER』の対面とはなりませんでしたが、かなり貴重なシーンだと思います。
『JOKER』物語の全てが、妄想かもしれない。
アーサーに妄想癖があることは、マーレーのトークショーに出演している自分を思い浮かべるシーンで暗示されています。
しかし、妄想のシーンはここだけではないかもしれないのです。
隣人ソフィーとの恋愛や、母親から愛情を向けられるシーン。他にもバスで子供を笑わせるシーンや、トークショーで笑いを起こすシーン全てが妄想かもしれないのです。
制作陣は、その全ての可能性を否定しないと語りました。
マーレーのトークショーに出て、彼を撃ったのは恐らく本当だと思います。なぜなら、そのシーンがしっかり第三者にリアクションがみられるからです。
ではどこが妄想か?考察するに『アーサーが肯定されるシーン全て』だと思います。
ソフィーに『証券マンを殺したのは正しい』と認められたシーンも、子供に笑ってもらえたことも、最後に復活をとげて崇められたことも。全てが妄想だと思います。
ここはアーサー自信『喜劇は主観』と語っていることから、『人生を喜劇と思えた瞬間』。つまりジョーカーとしている時間は現実で、アーサーとしている時間(ソフィーや母親との絡み)は全てが妄想なのです。
世間に認められたのは『ジョーカー』であり、『アーサー』という存在は最後まで世間から認知されなかったと考察できます。
『JOKER』の作中、実はオマージュに溢れている。
『JOKER』は『タクシードライバー』がよく引き合いに出されますが、ほかの映画からもあえて似せた箇所、影響を受けたであろう箇所が多く見受けられます。
犯罪者の映画。犯罪者がヒーローのように崇められるという話の構成は映画『狼たちの午後』。多くの人が見ているテレビで、自分の鬱憤を暴露するという場面では映画『ネットワーク』。
そしてアーサーのセリフ『自分の人生は悲劇だと思ってたが、喜劇だった』は、、チャップリンの『人生はクローズアップで見ると悲劇だが、ロングショットで見ると喜劇』という言葉から影響を受けている。もしくはあえて似せることで、各映画の時代の雰囲気を再現しているのかもしれません。
最後に:『JOKER』として見せられたのが、心に重くのしかかる。
アーサーは心優しく大道芸人を目指す、夢ある人。しかし、貧困層であり、障害をもっているという社会的弱者をもろに体現しています。
貧困と障害。さらに世間からの不理解。そんな社会にも負けじ途絶えるアーサーが、だんだんと心が壊れていくのを観ることになります。
そして、何よりこの映画を『JOKER』として観させられているのがつらい。何も『JOKER』を批判したいというわけでなく、この映画が『JOKER』として観させられるということは、最初から主人公アーサーが闇に堕ちてしまうことがわかっているのです。
MARVELヒーロー映画を観る時、「いつヒーローになるんだろう」というドキドキが、『JOKER』では「いつ闇に堕ちてしまうのだろう」というやるせなさになります。
それでも映画を楽しめてしまうのは、結局のところ、観客は『ジョーズには人を食べてほしい』からでしょう。観客は『ジョーズ』に人が食べられるシーンがあると知っていて、観客は登場人物が必死に食べられないよう生きようとする姿を楽しみます。
しかし、『ジョーズ』が人を1人も食べずに映画を終えたらどうでしょう?『生きるか喰われるか』のクローズアップしたシーンではドキドキできるでしょうが、『結局人は1人も食べられませんでした。』という映画一本をロングショットで観させられたら、観客は映画を批判するでしょう。
『JOKER』でも同じ事が言えてしまうと思います。貧困と障害。経済格差に苦しみ、富裕層から罵られる日々をおくるアーサーを、心から可哀想と思えど、闇に堕ちる瞬間を今か今かと待ちわびているのです。
この映画は、最初から『JOKER=悪者』が、主役という映画として見せた事に意味があると思います。監督が言った通り、他作品とクロスオーバーさせる必要はなく、これ単独で『JOKER』としてあまりにも綺麗に終わっているのです。
上記映画も是非オススメ
今回の記事では、『JOKER』を観る際、ちょっとでも見やすいように第三者目線での見方を書きましたが、結局重い内容になってしまいました。(さすがDC作品)
冒頭で不良にリンチにされたアーサーの上に、デカデカと『JOKER』というタイトルを出した時点で、「この可哀想な男はこの映画で世紀の大犯罪者になります!」と釘をさされた気がしました。
上記で書いた『狼たちの午後』等の映画は、『JOKER』を気に入ったという人は是非観てみる事をおすすめします。それに『JOKER』よりは救われるエンドですのでご安心を。
それでは次の記事で!