※引用:©スタジオジブリ 「もののけ姫」より
こんにちはアリスケです。
今回は、『もののけ姫』に登場する「エボシ」の過去や武器「石火矢」にまつわる設定の解説、考察をしていこうと思います。
「石火矢」といえばジブリ作品の中でもかなり有名なものであり、『もののけ姫』の潤滑油のような役割をもっています。
アシタカの旅立つ理由になり、森と人が争う理由ともなった「石火矢」ですが、本当は以外と弱かったり実際のものと違ったりしています。
そんな「石火矢」や、石火矢を語る上で欠かせない「エボシの過去」や「鉄」、「鉄をとるタタラ場」にまつわる考察と、あまり知られていない設定について解説していこうと思います。
実は思っているよりも、あんまり強くない石火矢
『もののけ姫』では、主にエボシが使用する『石火矢』という、とても印象的な武器が登場します。
巨大な森の神々や侍と渡り合う武器として活躍し、物語が始まる原因ともなった重要なものです。
しかし、実際の石火矢は、馬に乗った遠くの侍の鎧を打ち砕けるほど威力はなく、命中率も高くありません。
そのため、音による威嚇や撹乱を目的とした兵器だったそうです。
2020年7月17日に発売され、話題を呼んだゲーム、『ゴーストオブツシマ』にも敵が使う武器として石火矢っぽいものが登場します。
玉が命中しても即死にはならず、かなり近距離ではないと当たらないです。
むしろ『ゴーストオブツシマ』で登場する方が、本物の石火矢に近いと思います。
しかし、『もののけ姫』に登場する『石火矢』は宮崎駿監督の嘘なのかと聞かれるとそうではありません。
明国から持ち込んだというあの武器は、火槍(ハンドカノン)を改良したものです。
実際の絵コンテの中では、石火矢集が使っていたものを石火矢、エボシや取り巻きの女たちが使っていたものをハンドカノンと呼称しています。
日本に最初に伝わった大砲は『国崩し』と呼ばれ、奇しくもエボシもハンドカノンを国崩しの道具として使おうとしています。
エボシの過去
エボシは倭寇(主に中国沿岸部にいた海賊)に売られ、頭目の妻にされた過去を持ちます。
そこから頭角を現し、頭目を殺し、金品を洗いざらい持って日本に帰ってきたという設定を持ちます。
タタラ場が抱える矛盾。侍を殺す事こそ国崩し?
上記のような過去をもつ彼女は、同じ売られた女性達を救い、国や侍に支配されない自由と自分の理想国家を作ることを目指します。
壮絶な過去とそれを乗り越えてきた豪胆な行動力を持つ彼女は、神々の前でも遅れをとらず、アシタカの呪いさえもちっぽけな不運にみえてしまうのでしょう。
エボシが言った「賢しらに僅かな不運をみせびらかすな」こんなセリフも、自分の不運を克服乗り越えていないアシタカへのもどかしい気持ちからでてきたのかもしれません。
しかし、当時のタタラ場は、エボシが目指す理想国家にまだ届いていませんでした。
一見、侍にも怖気付かず女性が元気に暮らすタタラ場ですが、実矛盾を抱えているのです。
周りに田畑がないタタラ場は、鉄を売って食料や生活必需品を手に入れているわけですが…
では、その鉄は何に使われるかというと、侍が使う武器や鎧になるわけです。
侍は武器や鎧を手に入れ、戦をします。
戦が起こると親や家を失った孤児が生まれ、人買によって売買されるのです。
タタラ場にいる「売られた女達」も、多くはタタラ場が売った鉄によって起こされた戦争が原因となっているのです。
この矛盾にエボシも気づいているからこそ、「国崩し=侍共を殺す」ことにあそこまでムキになるのです。
後半にエボシが指揮する石火矢衆が、地侍達を蹴散らしているシーンがあったりと、
エボシがどことなく侍殺しを積極的(喜んで?・楽しんで?)にやっているようにみえるのはそういったことがエボシの行動原理だからです。
『もののけ姫』を観て、
「なんでもっと侍にいい顔しないんだろう?」
「ジコ坊の侍に鉄をあげろというアドバイスをなんで無視するんだろう?」
と思った方も多いと思いますが、エボシは「いつか侍共を皆殺しにしなければならない」と思っているのです。
侍を殺し、売った鉄が戦争に使われなくなり、売られる女達がいなくなることこそ、エボシが考える国崩しなのです。
タタラ場に子どもがいない理由
タタラ場に子どもがいない理由もそこにあります。
映画を鑑賞していて、なんとなく違和感を感じた方もいるのではないでしょうか?
タタラ場には子どもが1人も登場しません。しかし、タタラ場には人手が足りています。
それは上記でも説明した通り、エボシが売られた女の子を連れてきてしまうからです。
他にも、子どもが働けるようになるまで時間がかかる、タタラ場が侍から狙われる危険な場所であったことも理由として考えられます。
また、宮崎駿監督はタタラ場に子どもがいない理由を語っています。
「タタラ場には、そのうち子どもは産まれてくるだろうが、まだそんな時期じゃない。」
これは「タタラ場に子どもを育てる余裕がなかった」という訳ではないと思います。
タタラ場では、労働者の身分関係なく、みんな白いお米が食えてましたからね。
ただ、子どもを育てられるからといって、育った子どもたちが戦争で死んでは意味がありません。
「そんな時期じゃない」というのは、「エボシの理想都市計画がまだ途中だから」という意味だと思います。
物語の最後、エボシは考えを改めて、「アシタカを呼んできておくれ」と言っていました。
「ここをいい村にしよう」というエボシの言葉の裏には、「子どもを育てらる村にしよう」という意味があったかもしれません。
また、宮崎駿監督曰く「子どもが出てくるとややこしくなるから外した」という演出的な理由もあります。
確かに子どもが出てくると『もののけ姫』の印象は大きく変わってしまいます。
村に子どもたちが登場した作品である『風の谷のナウシカ』を振り返ってみましょう。
ナウシカの印象をどう感じますか?
「無垢な心を持ちながら、みんなを導く慈愛をもった女性」というイメージがある思います。
それは劇中に、考えが幼い少女がナウシカになぐさめられるシーンがあったり、ナウシカが赤ん坊を抱えたりするシーンがあるからです。
聖母マリアの絵を思い浮かべてください。
と言われて、赤ちゃんを抱く女性姿を思い浮かべる人が多いと思います。
アニメの演出とはそういうものであり、ナウシカが赤ちゃんを抱き抱えたりするシーンをみると、心理的に視聴者は「慈愛や母性」を感じてしまうのです。
そんなシーンがもののけ姫にあったらどうなるでしょう?
アシタカやサン、タタラ場の村の女性達にそんなシーンがあったら、登場人物が一回り大人に見えてしまいます。
それでは、宮崎駿監督が『もののけ姫』で伝えたかったテーマから脱線してしまいます。
宮崎駿監督はアシタカやサンを受難に苦しみながらも、それを制御する術をちょっとずつ学んでいく若者として描きたかったのです。
『もののけ姫』の中ではアシタカ=子どもなのです。
アシタカやサンの若者感、エボシやジコ坊から言ってしまえば青臭い子ども感を損なわないためにも、宮崎駿監督は子どもをあえてタタラ場から外したのだと思います。
あまり知られていないタタラ場が侍に襲われた意外な理由。タタラ場にも非があった…
エボシ達が侍達を殺す理由があれば、侍達がタタラ場を襲う理由もあります。
それは「鉄がもっと欲しい」という単純なものもありますが、他にも理由があるのです。
タタラ場は鉄穴流しという、作物や人間に悪影響を及ぼす行為を行っているのです。
鉄穴流しとは、水流で岩石を崩して下へ落とし、土砂と砂鉄の比重の差で砂鉄を取る方法です。
この作業は大量に土砂を排出し、下流域の農業灌漑用水に悪影響を与えます。(用水路が土まみれになる)
普通だと下流に人が住んでいない地域や農閑期の冬の間にやる作業ですが、タタラ場は夏場に平気でやっています。
「下流の田畑に悪影響を散々与えておいて、鉄を売ったお金で米や作物だけ買っていく。」そりゃ恨みの一つや二つ買いますよね。
この「時期違いの鉄穴流し」は、一部のそういったことに詳しい人達の中で、「宮崎駿監督のミス」という説も上がっています。
しかし、宮崎駿監督もこの点には触れており、タタラ場が侍達に襲われた理由のひとつになったとして語っています。
個人的には、この異常なまでの理論武装は、宮崎駿監督というよりは、鈴木敏夫プロデューサーのこだわりかなと思います。
いずれ詳しく書こうとは思いますが、当時のスタジオジブリは『もののけ姫』を絶対にヒットさせなくてはならない状況でした。
鈴木敏夫プロデューサーは、ヒットといってもそこそこではなく、それまでの興行収入トップ(南極物語)を超えるくらいのヒットを狙っていました。
予算も制作期間もこれまでの作品の倍以上かけていました。
そんな絶対外せない作品の酷評を、試写会の時点から避けるために、鈴木敏夫プロデューサーは、地質、風土などの各専門家にアドバイスを頼んでいったのです。
当時のパンフレットには専門家の解説も載っています。
ジブリは子供から大人まで楽しめるだけあって、場面を追うだけでも十分すぎるほど楽しめます。
ですが、それだけでなく、ワンカットワンカットにもしっかり設定や元ネタがあり、そういった隅々まで楽しめてしまうのもジブリの魅力なのだと思います。
どんなシーンやカットにも必ず意味があり、ちょっと調べれば元ネタが出てくるものが結構あります。
こちらの記事も合わせて読んでいただければ、より楽しんでいただけると思いますのでぜひ。