公開日に観に行くことができてホントに良かった。最近、映画を観る頻度が落ちていたのもあって心構えは十分。
さらに国際映画祭でも最優秀賞に輝いたとあったら、もう楽しみで仕方がなかったです。
今回の記事では、実際に観た感想(微ネタバレ)や解説。それと『JOKER』が、R指定になっている理由もプラスして書いていこうと思います。
※以下ネタバレあり
目次
『ジョーカー』役のホアキン・フェニックスが、すばらしいの一言。
冒頭、ピエロのメイクをして、閉店セールの呼び込みの仕事をするアーサー。呼び込み看板を悪童達に奪われ、さらに暴行を受け、倒れ込むアーサー。
そこにデカデカと『JOKER』と作品タイトルがでるシーン。
蹴る暴行を受けるシーン。日本の邦画等では頭を両手で抱えてうずくまる姿勢をとる事が多いでしょう。しかし、『JOKER』では違いました。
アーサーは『片手で頭を守り、もう片方の手で急所を守っていた。』このシーンだけで、ゴッサムシティには、日頃から暴行が絶えない街ということが観て取れます。
この際のホアキン・フェニックスの演技は本当にリアル。「監督は実際に悪漢に襲われたことあるんじゃないか?」と思ってしまうほどリアルに描かれていました。
『ふとした瞬間に止められない笑いが出てしまう』という病気をもつアーサー。この『笑いたくないのに笑ってしまう、必死に止めようとしてえずいてしまう。』
この病気の演技もリアルでした。思わず咳が出る時の【そんな深刻な咳じゃないから、周りの人に「大丈夫だよ!」と言いたいけれど、咳がとまらない】という日常にある描写と重ねてしまいました。
「役作り」の減量もすばらしく、浮き出るあばらや背骨が、いいようのない『痛ましさ』、『不気味さ』、『心身共に疲弊している様』を全身で表現していました。
一瞬『DC作品』ということを忘れてしまう。
序盤は陰鬱なシーンが続き、幸せを少しでも感じた瞬間、不幸が起こっていく。
喜劇から悲劇。悲劇から喜劇と変わる映画はたくさんありますが、ここまで悲劇と喜劇が交差する映画はなかなかないです。
証券マンからの暴行に耐えきれず人を殺めてしまったアーサー。怖くなってその場から逃げ、電灯が消えかかった公衆トイレに逃げ込む。
ここまでは画面も暗く、陰鬱な雰囲気が漂っていましたが、鏡に写った自分をみていると、言い知れぬ高揚感を感じたアーサーは踊り出してしまいます。
このカメラのアングルやカットが、まるで舞踏会でダンスしている人を写すように撮られています。
更には、アーサーが劇場に忍び込んでつい映画に見入ってしまうシーン。
映画に見惚れるアーサーを、まるで『ここから役者を目指してしまう』のではないかと思わせるほど喜劇的に撮られています。
陰鬱な描写とかすかな光を繰り返す中、私はつい、これがDCの誇るヴィラン、『ジョーカー』の誕生譚であるということを忘れていました。
雨に打たれ絶望の中、恋した人にも、見限られたシーン。アーサーの後ろ姿に思いっきり重低音の音楽が流れた瞬間。「あーこれはDC作品だった!」と途中で再認識しました。
なぜR指定を受けたのか?
海外で『JOKER』はR指定を受けてしまいました。R指定の理由は『グロデスクな表現』『汚い言葉遣い』『暴力的な描写』があるからと説明されています。
アメリカでは、上映映画館に持ち物検査、警備の強化が実施される程です。
しかし、ここまでされるには『JOKER』という作品が、観る人を選んでしまうからと言えます。
『ダークナイト ライジング』が公開された頃、ジョーカーに魅了されてしまった青年が、銃乱射事件を起こしてしまったのもあり、警備の強化されるのも当然でしょう。
ではなぜ、『ジョーカー』というキャラクターに人は惹かれるのでしょうか?
誰しも『ジョーカー』になってしまう可能性がある。
ジョーカーはフォースも使えなければ、超能力がある訳でもありません。ナイフや銃がなければ戦えません。ただの人間のヴィランなのです。
ではなぜ『ジョーカー』というヴィランに惹かれる部分があるのか?
それは『ジョーカー』が何にも縛られていないからだと思います。自由奔放。気分屋でジョーク(犯罪)をし続ける『ジョーカー』というキャラクター。
その誕生弾である、今作『JOKER』は実に描き方が巧妙でした。
富裕層から蔑まれ見向きもされず、同じ貧民街に住む人からは暴行や嫌がらせを受ける。幾度となく他人に傷つけられても、なお前向きに生きた『アーサー』。
しかし、アーサーの心を完全に折ってしまっのは母親でした。心の拠り所であり、唯一幸せの思い出がある母親に裏切られたことで、完全に悪へと堕ちてしまいました。
人はどんなにつらいことがあっても、自分を心から理解してくれる人がいれば救われる気がします。人は1人では生きていけません。
ここまで救いようがない映画はなかなかありません。よく『JOKER』と引き合いに出される『タクシードライバー』もなかなかでしたが、まだ『タクシードライバー』の方がマシだった気がします。(もう一度見直したくないけど見直します;;)
造り手のミスリードを見極めよう。
造り手のミスリードをしっかり見極めれないと、この映画は『悪に堕ちた人間が、悪のカリスマへと生まれ変わった』という様に思ってしまいます。
この映画は、あきらかにアメリカの格差社会問題を描いています。『JOKER』の終盤では、格差社会に不満を持った民衆が、ジョーカーの犯罪に影響を受け、殺人強盗なんでもありのデモや暴動を起こしています。
ジョーカーが倒れた際は、狂った民衆が「立て!立て!」と、あからさまにキリストの復活を皮肉しています。
ジョーカーは連行されたアーカイムでも殺人を起こし、刑務官?に追われながらコメディ風に終わります。
すばらしい俳優の演技、すばらしい映像のおかげで、このカタルシスに酔ってしまう人が多いです。
しかし、監督は『人を殺しても平気なジョーカー』や、『欲望の解放』『富裕層への復讐』を描いてはいても、観客に伝えたいわけではありません。
最後、コメディ風に終わるのはこれは『JOKER』という映画だよ、と言われた気がします。
結局『富裕層への復讐』をした民衆達も、アーサーに暴行したり邪見に扱っていた頃と何も変わっていません。
『ジョーカー』という偶像崇拝をすることで、狂うことを正当化させてるだけなのです。
しかし、製作者側の見事なミスリードによって『ジョーカー』や『狂った街』が芸術的に見えてしまいます。
このミスリードを見抜けないと、ただただ陰鬱で暴力的で犯罪促進映画のように思われてしまいます。このミスリードを見抜けるか見抜けないかが、R指定された大きな理由でもあると思います。
最後に:救いようがないからこそ考えさせられる。
俳優の演技。撮影技術。脚本。どれをとってもすばらしいですが、心が疲れるのは事実です。
今までの『ジョーカー』は最初っからイカれた犯罪者だったのが、本作ではアーサーに善人の心がありました。その善人の心が、周りの身勝手な悪意によって擦り切れていきとうとうイカれてしまう。
現実でも起こりうるのが怖いところです。
無差別殺人ニュースが報道された直後、自殺した犯人に対して、SNS等で「どうせ死ぬなら1人で死ね」等の辛辣なコメントを見かけます。
遺族の気持ちを考えれば最もに思えてしまうかもしれませんが、こういったコメントみた『加害者と同じ境遇の人間』はどうでしょう?
『社会に自分は見向きもされてない』そう思ってしまう人も出てくるでしょう。『JOKER』を観て、善意ある人には善意を向けないといけないと改めて思いました。
『JOKER』は「是非観てほしい!」と無責任に言えるような作品ではありませんが、『タクシードライバー』や『HOPELOST』よりは『ジョーカー』というキャラクターが出てくる分観やすいのではないかと思います。