私の大好きな『スターウォーズ』の完結編(?)が公開されたので観に行ってきました。
平日にもかかわらず、映画館は結構若い人で混雑しており、「スターウォーズをまだまだ観たいと思う若い人も多いんだ。」と思っていたのですが、冬休みの学生が『僕のヒーローアカデミア』の劇場版を見にきているだけでした。笑
予告編はこんな感じ。
さて、肝心の『スターウォーズ スカイウォーカーの夜明け』のレビューですが、褒めれるところを探すのが難しい映画でした。
どうやら、海外では批評が多いようです。国内のSNSなどでも検索したところ、賛否両論あるようで、エピソード7から見始めたファンには楽しめる作品となったようです。
筆者もスターウォーズのファンの1人として、レビューをしていきますが、今作を絶賛されている方がいれば、少し胸の痛くなる記事になると思います。
正直、今回の『スターウォーズ スカイウォーカーの夜明け』には、後付にしか思えない新設定が酷く多すぎるので、その解説や考察はひとまず置いておき、率直な感想を書いていきたいと思います。
※まだ観ていない方がいたら、ネタバレが入るので、ご了承ください。
良い点・画面からあふれる画のセンス。
褒められるところは、映像の美しさ。それもただ「画質がいい」とか「CGが凄い」という話ではありません。
『絵の強さ』というのでしょうか。画面から伝わってくる『何が強いのか?』『何が美しいのか?』『何が謎なのか?』『何がキーアイテムなのか?』が、ワンカット事にわかりやすく美しく描かれています。
後から映画の裏話や裏設定が公開されると、新たに良い部分が浮かび上がってくるかもしれません。
しかし、J・J・エイブラムスが語るインタビューやテレビ出演映像、スターウォーズ新聞の情報を踏まえると、今のところ褒められるところはそのくらいです。
それでは『気になった点』や『悪かった点』について
レイの出生の秘密。後付けが酷すぎる。
『レイ』というキャラクターの出生には、「誰が親なのか?」という考察がされていました。一応、その答えは『スターウォーズ 最後のジェダイ』で明かされました。
「何物でもない」それが答えでした。
『ダースベイダー』になった『アナキン・スカイウォーカー』に親がおらず、フォースの意思から生まれたものだったように、『レイ』自信にも『親がおらず、凄い家柄でもない。』という答えが『スターウォーズ 最後のジェダイ』では、用意させられていました。
「まさに『誰だって、なんにでもなれる』というJ・J・エイブラムスが語っていたことにふさわしい出生だ。」
「J・J・エイブラムスにも批判されてもやりたいことはあるのかな?」
と思っていました。しかし、真実はなんと『パルパティーンの孫』つまり『レイ・パルパティーン』だったのです。
しかも、その正体を暴露するのがご本人様。かつて『ダースベイダー』となった『アナキン・スカイウォーカー』がジェダイの心を取り戻し、息子ルークを救うために命を賭して滅ぼした『ダース・シディアス』は元気いっぱい。
すでに傷だらけにされて、流れる血も残っていないと思っていた私の『スターウォーズへの愛』ですが、まだ傷つくところが残っていたことに驚きました。
レイの『パルパティーンの孫娘説』は『フォースの覚醒』より噂されていたが、ファンの間では「まさか安直すぎるだろ」「今までの話が台無しになる」という理由で信じていませんでした。
実際『最後のジェダイ』では何物でもないレイが描かれたはずなのに、「やっぱり大物の家系でした。」といきなり言われるとは思いませんでした。
「パルパティーンはいつ子供を作ったのか?」「レイはなぜ今まで見つからなかったのか?」ここまで後付けが酷ければ、もはや考察する気力もそがれてしまいます。
もし考察するのなら「これからどういう映画が世に出るか?」であり、キャラクターの心情や動機、思想に寄り添って考えることは不可能となりました。
J・J・エイブラムスもとより『スターウォーズ新3部作』をライブ感でつくっており、「細かい所は作ってるうち変わってもよし。それが映画だ」という開き直りっぷりです。
宮崎駿監督のような天才の真似を凡人がした結果、スターウォーズが犠牲になってしまいました。
もちろん、天才しか映画をつくるなという意味ではないです。J・J・エイブラムスの『クローバーフィールド』は、リスペクトや画面の迫力全てが面白いものでした。ただ『スターウォーズ』に彼が合わなかっただけかもしれません。
パルパティーンや、EP8の競馬場にいた少年にもフォースが宿っているシーンが描かれており、『スカイウォーカー家』というフォースの天才家系から、一般家系へとフォースが移り渡って行ったのが、もはや皮肉にしか見えませんでした。
忘れてしまった差別。
J・J・エイブラムスのスターウォーズ新3部作では、『差別』に関して力が入っているようでした。主人公に女性を起用している点や、ローズというキャラクターにアジア系の女優さんを起用した所から伺えます。
映画界から差別をどんどん無くしていく、というメッセージ性を持たせるのは大切なことです。
ですが、スターウォーズにもとより描かれていた差別へのテーマは無くしてしまったようです。
『スターウォーズ』は宇宙の戦争を描いたもの。なぜ反乱軍は帝国軍と戦っているのでしょうか?
理由の一つに、帝国軍が人外宇宙人達を差別していたというのがあります。
そのため、帝国軍には人や人型クローンしか存在せず、反乱軍には人や、人型ではない宇宙人達も属しています。
ところが新3部作では、EP7.8では過去作の人外宇宙人キャラクター達を雑に排除し、EP9ではそれを人種に置き換えて『スターウォーズ ジェダイの帰還』の真似事をしています。(人外宇宙人達はほんのちょっとしか出てこない。)
『スターウォーズ ジェダイの帰還』では、主人公達は共に戦ったイウォーク達(クマ型の人外宇宙人)と共に、宴をしてラストを迎えます。
しかし、『スターウォーズ スカイウォーカーの夜明け』では帝国軍に勝利した後、イウォークをワンカットだけ引きずり出し、反乱軍が喜んでいるシーンでは、おっきいナメクジ宇宙人をちょっとだして、あとは全然映さない。(せっかく後付けで出したアクバー提督の息子の喜んで抱き合うシーンくらい、あると思っていました。が、なかった。笑)
ラストバトルも同様に、過去作の真似(リスペクトと呼べない)をしていましたが、特に酷かったのが白兵戦シーン。
『スターウォーズ ジェダイの帰還』ではイウォークが、『今まで差別されていた原始的な原住民が帝国に一矢報いる』という熱い反乱劇をやってくれましたが、『スターウォーズ スカイウォーカーの夜明け』ではそのポジションに黒人女性を起用している。
つまり、J・J・エイブラムスは差別反対運動をしている気かもしれないが、今までのスターウォーズで宇宙人が演じていたポジションに、差別されている人種を当てはめていくという構造に対し、意味がない改変だと感じ取られました。
ですが、映画に『差別反対運動』のメッセージ性を取り入れることが、悪いと言いたいわけではありません。
演じている役者さんの演技は素晴らしいものでした。つまり、脚本が悪いと思ってしまいますよね…。
J・J・エイブラムスのメカはかっこ悪い。
J・J・エイブラムスは、スタートレックのリメイクをした時から言われていることですが、メカを描くのが本当に下手です。
それをわかってなのか『スターウォーズ スカイウォーカーの夜明け』では、モブの宇宙船はオリジナル感を出し、メインのバトルをする宇宙船には過去作の名機しか出しませんでした。
ジョージ・ルーカス監督から手を離れ、無理やり飛ばされ続けるAウィングやXウィング、TIEファイター達。映画で悲しくて泣いたのは本当に初めてかもしれません。
AT-ATによく分からん大砲を括りつけたのも、完全に蛇足でしたが、まさかスター・デストロイヤーにまでよく分からない大砲をつけるだけとは、ほんとにセンスがないとしか言いようがありません。
あくまで新3部作が完結するだけ…終わらない完結編。
『スターウォーズ ついに完結』と言っていますが、あくまで新3部作が完結するだけです。これから各キャラクターのスピンオフ映画が続々と撮られていきます。さらに新たな三部作も撮られる予定があるとの噂です。
いじめられっ子が、いじめっ子に「学校来いよ面白いことしてやる。」と言われている気分です。
ジョージ・ルーカスは「奴隷商人に息子を売ってしまった。」と語るように、ディズニーが版権を握るとはそういうことなのかも知れません。
『スターウォーズ スカイウォーカーの夜明け』のラストバトルシーンでは、激闘の末わかりあったカイロレンとレイが、協力してパルパティーンを打ち倒します。2人はそのあと感極まってキスを交わします。
いや、中学生か。「素直になれず、ツンケンしちゃったけど最後には幸せなキスをする」という流れが、ここまできて、今更ながらもディズニー映画だと言うことを思い知らされました。
J・J・エイブラムスの努力や野心は支持したい。スターウォーズっぽさを表現するのが、彼は本当に上手でした。しかし、それを愛だとは思えなくなってしまうほど、ファンは考察することの無意味さを思い知らされました。
『フォースの覚醒』『最後のジェダイ』で、過去を断ち切り新たな中国市場をめざし、アプローチしたが、特に相手にされず、やっぱりファンを大事にした結果『スカイウォーカーの夜明け』では、キャラクターのセリフ考えが迷走してしまった。
リスペクトシーンであろう部分も、もはやパクリかパロディにしか見えません。
カイロ・レンだけが、『親殺しの苦悩や光に惹かれる闇』を抱えるキャラクターとして突き通していた。
スカイウォーカー家VSパルパティーン家という構図は変わらないものの、立場が逆という、胸が熱くなるかっこいい場面さえも、2人がキスをして恋人のように振舞ったことで台無しになってしまった。
ジョージ・ルーカス監督の『スターウォーズ』への野心と似たものが、J・J・エイブラムスにもあったはずだったが、もはや何も感じることはできません。
J・J・エイブラムスが言った通り「数年後に評価され始めるかもしれない」という言葉を信じて、見てみるが、過去作のファンとJ・J・エイブラムスの思いは、タトゥイーンの夕日と同じかもしれません。