※Amazon 『鬼滅の刃 20 (ジャンプコミックスDIGITAL) Kindle版』より
週刊少年ジャンプに連載していた『鬼滅の刃』が、親世代からお子さんまで幅広く大流行しています。
『鬼滅の刃』は何故ここまで多くの人を惹き付けるのでしょうか?
色んな人が『鬼滅の刃』の人気について、考察や解説を述べていますが、個人的にはどれもピンと来ませんでした。
今回は個人的に「鬼滅の刃を最後まで読んで思ったこと」「鬼滅の刃の人気の理由」について考えていこうと思います。
最終話までのネタバレを含むので読んでいない方は読んでから読んでいただけると、より楽しんでいただけると思います。
ネタバレとか気にしないという方はこのまま読んでいただけると嬉しいです。
目次
鬼滅の刃はどこかで見たことあるシーンだらけ。しかし、それは悪いことではない。
私は、SF作品や特撮が大好きで読む小説や漫画もそういったものが多いです。しかし、だからといって『鬼滅の刃』のような漫画を読まないわけではありません。
『ジョジョの奇妙な冒険』や『HUNTER × HUNTER』、『ワンピース』『幽遊白書』『ドラゴンボール』『うえきの法則』などなど上げていけばキリがありませんが、「主人公が仲間と共に徐々に強くなっていく」といったジャンプ系漫画も好きで、結構読みます。
私自身、『鬼滅の刃』もアニメ放送開始前から単行本を買っていました。
ジャンプらしい作品でストーリーも面白く、話の続きが気になるような展開は魅力的だと思います。
しかし、正直なところ新鮮味はありませんでした。
お話のあらすじから、サプライズ的な演出までどこかて見たことがあるものばかりです。「他の漫画に似ているところ」を上げていけば、それこそキリがありません。
ただ、それが悪いことかと言われるとそうではないと思います。
リスペクトしたシーンがあれば、「鬼滅の刃」を通して、リスペクト元の作品の認知に繋がります。
例えば『鬼滅の刃』は作者さんも語っている通り、『ジョジョの奇妙な冒険』のリスペクトした要素が多く含まれています。
『鬼滅の刃』を読んだ小学生が、中学生、高校生になって『ジョジョの奇妙な冒険』を読むことに繋がっていきます。
それに、いちいち全て最初からやってはつまらない作品になってしまいます。
「巨人の肩に乗る」ということわざがあるように、先人の築いてきたものを利用するのは間違っていません。
『スパイダーマン ホームカミング』がウケた理由の一つとして、いちいち「スパイダーマンが蜘蛛に噛まれるところ」を描かなかったところがあるでしょう。
みんなが知っている「お約束」や「概念」のようなものをいちいち説明しないからこそ、新しいものを生み出すことに注力できると思います。
※『鬼滅の刃』の今までになかった新しいものは後で記述します。
ジョジョの奇妙な冒険と似ているところは、デフォルメが上手いところ。
これは多くの方が言っていることですが、『鬼滅の刃』は『ジョジョの奇妙な冒険』に似ています。
似ているも何も、鬼滅の刃の作者本人がリスペクトしていると語っているそうです。
これに対して「柱は柱の男のパクリだ」とか「呼吸は波紋の呼吸のパクリだ」だとか野暮なことを言うつもりはありません。
ジョジョを知らない世代(お子さん)とジョジョを知っている世代(親)が一緒になって楽しめるという構造は、とても良いと思います。
それに、個人的に「キャラクターや設定がジョジョに似ている」というのはどうでもいいことだと思います。(あからさまな盗作とかは別として)
ジョジョの奇妙な冒険自体スタンドの設定を色んな昔の漫画から引っ張ってきていますし、ジョジョ第5部なんかゴッドファーザーにめちゃくちゃ似ていますからね。
『鬼滅の刃』と『ジョジョの奇妙な冒険』のどこが似ているのか?それは『キャラクターのデフォルメ』という部分でしょう。
鬼滅の刃はキャラクターの『デフォルメ』が上手なんです。
『ジョジョの奇妙な冒険』と『鬼滅の刃』に共通しているのは、どちらも構図が下手なはずというところです。
手がありえない方向に曲がっていたり、キャラクターの立ち位置がコマごとでバラバラだったりとお世辞にも構図が上手いとは言えません。
しかし、構図なんてどうでも良くなるほどキャラクターが、『鬼滅の刃』も『ジョジョの奇妙な冒険』もかっこよく描かれています。
なぜキャラクターがかっこよくみえるのか?
それは設定やデザインがかっこいいと言うよりも、漫画としての描き方に理由があると思います。
例えば、『ジョジョの奇妙な冒険 第5部』に出てくるディアボロというキャラクターは、少し先の未来を見ることが出来ます。
普通の漫画なら「未来を予知する」能力を説明する時、文章だけで説明してしまうか、何個かコマを裂いて「未来に起こること」をそのまま描いてしまいます。
しかし、デフォルメの天才荒木飛呂彦先生は「なびく髪の中に未来の姿」を描きました。
髪の毛の中に未来を描くなんて普通思いつかない。キャラクターのデフォルメが天才的に上手い荒木飛呂彦先生 #ジョジョの奇妙な冒険 pic.twitter.com/nKtdF6J8YH
— アリスケ (@walking_planets) June 2, 2020
ほんの一コマですが、流動的で美しささえ感じるコマです。
「もしこの能力が現実にあったら?」を読者に妄想させてくれるコマです。
この世には実際に「未来が見える人」なんていません。だから「未来が見える人を描く」のはとても難しいのです。
世界のビックリ人間を紹介するバラエティの「未来がみえる少年の奇跡の再現VTR」みたいなものを見れば、おわかりの通り、凡人では「未来がみえる人」を描こうとすると、変なモヤをかけたりボヤけた画を写したりと嘘っぽくなってしまいます。
「どうせ嘘っぽくなるなら、最大限にはったりを効かせ、おしゃれにみせる。」それが『ジョジョの奇妙な冒険』に登場するキャラクターの描かれ方の魅力です。
人間が未来を見ることができるなら、「夢のように断片的であり、一瞬ではないか?」という考えを見事に漫画としてデフォルメしています。
「おしゃれでかっこいい」漫画としてデフォルメするからできる表現です。
さすがは、荒木先生。『スタンド』という形で、「超能力を可視化する」というデフォルメの革命をなしとげた人です。
『鬼滅の刃』には、このデフォルメの上手さの片鱗を感じます。手が変な方向に曲がっていたり、キャラクターの位置がおかしくても、キャラクター(のデフォルメ)がかっこいいから、読んでいて面白いです。
「鍛錬された太刀筋は、まるで流水や雷のように見えるのではないか?」という思いを、絵で表現するところに漫画家としてのかっこよさがあります。
『鬼滅の刃』は手塚治虫的。
鬼滅の刃の評価に、「絵が下手」というのがありますが、個人的には「絵が下手」という評価の多くは、正直見当外れだと思います。
漫画は大きくわけて2つの種類があると思って、ひとつは『写実的なもの』ふたつめは『記号的なもの』です。鬼滅の刃はあきらかに後者です。
『記号的な漫画』を説明する前に『写実的な漫画』を説明します。
例を出すなら『孤独のグルメ』で有名な谷口ジローさんの作品がわかりやすいでしょうか?
人間こそ漫画っぽくデフォルメされていますが、それでも日本人特有の平たい顔になっています。
💧や💢というような漫画的な記号は使わず、人間の喜怒哀楽を微妙な表情の差異で描き分けます。
写実的な絵は情景や食べ物の鮮やかさや雰囲気を伝えるのにもってこいな描き方です。
「どん」「みし」「どど」というようなオノマトペも少ないです。
だからこそ、すごくリアルに見えます。
日本のラブコメアニメの登場人物は外国人から見れば日本人には見えません。目が大きくて鼻が高いなんてのは日本人の人種の顔の特徴とは真逆と言っていいです。
ラブコメアニメでは、あくまで日本人の中での「差」をわかりやすく描くので、可愛い女の子は、目が大きくてEラインがくっきり描かれます。
これを写実的に描いたりしたら全部『AKIRA』みたいな絵柄になっちゃいますからね。(AKIRAはしっかり日本人の中での美人としてヒロインを描いてる。)
それでは見ていて花がないから『記号的な漫画』があります。
記号的というのは手塚治虫先生の作品を読めばわかりやすいと思います。手塚治虫先生の作品は、物語を子供でも分かるように描かれています。
つまりどういうことかと言うと、「文字を読まなくても伝わる」「喜怒哀楽がわかりやすい」といったところです。
登場人物が怒っていることを、写実的な漫画が描こうとすると、「片目だけしかめる」「眉間にシワがちょっとだけよる」というような表現になってしまいます。
それだと、子ども目線でイマイチ登場人物の気持ちが読み取れませんよね。
だから手塚治虫先生は、わかりやすい「漫画の記号」を発明しました。
「怒っているキャラクター」の記号は、「💢」や「両手をグーにしてを上にあげる」等です。
現実には、怒って血管がが浮き出てもひたいにマークは浮き出ませんし、両手を振り上げて怒る人もいません。
ですが「怒っている」をデフォルメして記号にして、漫画に落とし込むと、一瞬で「怒っている」ことが伝わります。
一瞬で伝わるからこそ、話のテンポが上がっていくので、記号的な表現は漫画のギャグシーンにもってこいです。
もちろん記号的な表現は、「怒」にだけあるものではありません。
力関係を強調するために、遠近法を大げさに描いたり、「キャラクターが焦ると汗のマークが浮き出る」、「美しいキャラクターの周りにはダイヤマーク(キラキラマーク)を描く」なんてのも記号的な表現です。
※火の鳥と調べれば、どういうことかわかると思います。
美しいものが「なぜ美しいのか?」を絵の中で徹底的に追求する写実的な漫画も、「美しいものは美しいもの」として割り切って描き、その分他のことに注力する記号的な漫画も、どちらもいいところがたくさんあります。
最近の漫画はそれが混同している漫画が多いです。
それが悪いことではありませんが、現実味のある絵と記号化されたキャラクターが混在している作品(名探偵コナンの映画とか)になれてしまっている人が多いです。
そうなると記号化された要素の強い漫画が、ものすごく上手にデフォルメされていても、そこを評価せず「絵が下手くそ」という評価だけで終わってしまうのです。
『鬼滅の刃』はあきらかに『記号的』に描かれています。
焦る主人公には💧マークがつきますし、怒っているキャラクターには血管が目に見えて浮き出ます。
しかし、上記にも書いた通り、その分『デフォルメ』の部分が挑戦的に描かれていると思います。
ただ、『鬼滅の刃』は戦闘描写にも記号的な表現が多いです。だからこそギャグ漫画のように見えてしまい、シリアスな場面で冷めてしまうという人が多いのかもしれません。
鬼滅の刃は『グロ』や『狂気』が表現されるのに、なぜ飲み込めるのか。本当は怖いはずの輪廻転生。
『鬼滅の刃』は上記の通り記号的な表現で描かれています。
だから漫画もアニメもお話の大筋がわかりやすいし、人によって程度は違えど、ある程度は楽しむことができます。
怒っているキャラクターは怒っている記号で描かれ、美しいものは美しい記号で描かれています。
『鬼滅の刃』は粥みたいなものなんじゃないかと思います。
「誰にでも食べることができるが、もっと美味しいものを知っている人には物足りない。」
『鬼滅の刃』は『グロ』も『狂気』も『猟奇』も『鬱』も突き詰めれば、伝説的なものを残せるはずなのに、あえてしません。それは良いところでもあります。
悪いことをしてきた奴はちゃんと地獄に落ちて、良いことをしてきた奴はそれなりに報われて、輪廻転生まできてしまいます。
「転生」が行われた世界では、鬼達はいません。なぜなら人を殺して食べてきたからです。当たり前のことです。
宗教によって多少の差異はありますが、「輪廻転生」という考えでは、前世で悪い行いをしたものは、畜生に生まれ変わるか、地獄に落ちます。
人を殺して食う側だった鬼が、家畜に生まれ変わって今度は人に殺されて食われるなんて、めちゃくちゃ皮肉が効いていると思います。(畜生=家畜という意味ではありませんが)
人間が殺されるくらいなら鬼を殺す、鬼殺隊がやってきたことは「人間の勝手」です。
食物連鎖では、生物が生物を食うのは当たり前、その対象が人だったというだけで、鬼という生命を殺すのが鬼殺隊です。
愈史郎だけ生き残った世界で、珠世だけ転生しないのは、球世も人を殺めたことがあるからです。
鬼という生物を殺すことが正当化されている世界では、もちろん『輪廻転生』という人間の勝手な考えが適用されています。
しかし、多くの人はここまで考えないでしょう。
深読みしたことろでそれが正しい訳ではありませんし、誰も珠世が実は豚にでも生まれ変わって、朝食のウィンナーや転生甘露寺の定食屋の豚カツになってるかもなんて考えたくはないでしょうから。
「怖いもの」「かっこいいもの」「美しいもの」色んなものを原型が分からないくらいに、どろどろに溶かして、誰でも飲み込めるようになったもの、それが『鬼滅の刃』だと思います。
だから多くの人の楽しまれるんです。
特に難しい知識を必要とせず、刀や鬼といった日本昔話に出てくる程度のことを知っていれば、ある程度楽しめてしまいます。
楽しむ為のハードルが、とことん低く設定されているのが鬼滅の刃なんです。戦闘シーンになれば聞き心地が良くて、派手な演出の技がポンポンでてきます。
『鬼滅の刃』に登場するキャラクターは、良い奴は最後まで良い奴で、悪い奴は改心するか、驚くほどスッキリ無様に地獄に落ちていきます。
ここまで心にしこりが残らない、ギャグ漫画ではない連載漫画もなかなかないです。
決して固定された「こういうキャラクター」という枠組みから、飛び出しません。
良い奴は良い奴、悪い奴は悪い奴という決められた枠組みから飛び出さないからこそ、アクションシーンでドキドキしても、どこか安心してみてられます。
はっきり言いますが、『鬼滅の刃』は徹底してキャラクターの人格が成長することはありません。
炭治郎は最初から最後まで「優しいキャラクター」なんです。
戦闘力が上がっても、いつまでたっても炭治郎は炭治郎のままで、炭治郎が色んな事件に巻き込まれるとこを「おもしろいこと」として描いてるんですよ。
他のキャラクターでも「心情の変化っぽいもの」が描かれる時、決まって過去の回想シーンが描かれるのがその証拠で、一見炭治郎のような「心が真っ直ぐで綺麗な奴」と出会って鬼(悪い奴)が改心したように見えます。
しかし、鬼は元々普通の人間で善良な心が残っていただけで人格が変わった訳ではありません。
あくまでそういったキャラクターでしかないのです。だから安心して読んでられます。
『鬼滅の刃』は作品を楽しむため読者に求められる素養ものすごく低く設定されています。
『鬼滅の刃』が楽しめた方でも、同じ「人の形をしたものが人を食う」ことが描かれている漫画『寄生獣』は楽しむことができないという方は多いでしょう。
なぜなら『寄生獣』で描かれるような、生々しいグロテスクは耐えることが出来ず、記号的な漫画の表現に慣れているから、
『寄生獣』のような人格の変化が繊細に描かれていても気づくことができないかもしれません。
さらに「人が人を食う生物を殺すこは正しいのか?」まで『寄生獣』では描かれちゃっています。
『鬼滅の刃』から漫画を好きになって、評価の基準が『鬼滅の刃』だけの人が『寄生獣』を読めば、「ただ暗くて重くてグロい漫画」で終わってしまうと思います。
これは、作品だけでなく趣味でも言えることですが、どんなものでもきちんと「楽しいおもしろい」と思えるまで、一定のハードルがあります。
人形浄瑠璃は黒子が見えなくなって(黒子が見えなくなるくらい世界観に入り込める)やっと真のおもしろさに気づくことができるそうですが、そうなるまでにはやはりある程度の知識、知能、経験が必要なわけです。
読書も映画も音楽も一定のハードルが存在して、そのハードル全てを越えられなかった人は、無趣味になったり、射幸心を煽るパチンコ等のギャンブルにハマってしまうわけです。
『鬼滅の刃』は、上記の通りシリアスな場面や戦闘シーンなど多くの場面が記号的に描かれており、漫画やアニメが苦手な人や、そこまで好きではない人でも楽しめるようになっています。
『輪廻転生』という、かなり皮肉が効いた設定すら甘くて優しい表現で描かれており、ほとんどの人がその残酷さに気づかないようになっています。(作者がそこまで考えていないとかではなく、子供も楽しめるようわざとだと思われる。)
そういった部分が、『グロ』『猟奇』『狂気』『鬱』『シリアス』『写実的な表現』といったハードルを超えた作品を楽しんできた人達からの、「なぜ人気があるのか、わからない」という評価につながるわけです。
ただ、上記にも書いたとおり、『鬼滅の刃』の良いところは、入口として機能できるところなのです。
『鬼滅の刃』をみたおかげで、色んな漫画やアニメを知って「作者かどんなものに影響を受けたかのか」まで楽しむことができます。
『鬼滅の刃』の新しいところ。未熟なものから死ぬ当たり前。復讐は悪いことじゃない。
ここまで心にしこりが残らない作品はなかなかないと上記でも書きましたが、『鬼滅の刃』は驚くほど全てスッキリ終わらせてきます。
読者が泣きたいシーンで、キャラクターに泣かせるセリフを吐かせ、熱いバトルシーンでは模範的な熱い演出(仲間が助太刀に来る等)が用意されています。
ただ、全てがなにかの二番煎じのようなシーンで構成されているわけではなく、ちゃんと新しいと思えるところもあります。
一つ目、未熟なものから死んでいく。
黒死牟VS時透無一郎、悲鳴嶼行冥、不死川玄弥、不死川実弥の戦闘シーンで、無一郎と玄弥が黒死牟に殺られてしまいます。
生き残ったのは鬼殺隊でも一二を争う強さの悲鳴嶼行冥も不死川実弥の2人です。「若くてまだ未熟な2人が先に死ぬ」というのは当たり前なのですが、当たり前だからこそ新鮮味があります。
他のバトル漫画でも未熟なものから死んでいくシーンは山ほどありますが、「ちゃんと才能もあって修行もしてきた若者」が死ぬシーンというのはなかなかありません。
そもそも他の漫画では、「先輩が後輩を庇って死ぬ」というシーンの方が圧倒的に多いです。
しかし、本当に仲間のことを考えるなら、まだラスボス鬼舞辻無惨が残っている以上、悲鳴嶼行冥と不死川実弥からすれば自分が死ぬ訳にはいかないのです。
若さや才能だけではどうにもならないことをしっかり描いたところと、戦いでは強さと経験があるものが生き残るという当たり前なことを描いたところは、『鬼滅の刃』の多くの人が命をかけて協力するといった雰囲気によくあっていて、おもしろく新しい部分だと思います。
2つ目、復讐は悪いことじゃないはず。
「目には目を」という言葉が存在するとおり、報復とは決して咎められるものじゃないはずです。
しかし、アニメや漫画では「親を殺した犯人を殺そうとするキャラクター」に対して「やめて!そんなことしても意味無い。天国の親は喜ばない」と言って復讐を止めてくるキャラクターがいます。
言っていることの正しさは理解できても、どうしても心にしこりが残ってしまいます。
そんなしこりを一切残さないのが『鬼滅の刃』です。
家族が殺されたら、殺した犯人をどんな苦労をしてでも殺す。そんな異常者の集まりが鬼殺隊です。
一応炭治郎の目的は、「禰豆子の治療の鍵をみつけること」「これ以上不幸な人を増やさないこと」です。
ただ、『鬼舞辻無惨』を絶対に殺す相手として定めている発言を多くしており、復讐心があることは明白です。
復讐を目的に生きれば、それが果たされた時、活力を失って廃人になってしまうかもしれません。
さらに現実世界では、例え報復だとしても一般人が人を殺めてしまえば罪になります。
しかし、『鬼滅の刃』は鬼が相手です。復讐しようがなんの罪に問われることもなありません。
親や知人を殺されて鬼殺隊に入隊したであろう隊員もいたでしょうが、彼らがどうなったかは結局描かれることはなく終わりました。
「親や恋人を殺した鬼には、親玉がいる」「絶対許せない、そんなやつ俺が倒す」という意気込みで入隊したであろう隊員はいたはずです。
目的の復讐が他人の手で果たされて、これからの生き方を見失ってしまうような隊員はいなかったのでしょうか?
大した活躍もせずに死んでいった隊員達は、輪廻転生させて貰えなかったということでしょうか?
真相は分かりません。
『鬼滅の刃』の、復讐の物語を正々堂々と正義を持って果たすという部分がおもしろいし新しい。と思っていただけに、主人公と同じ目的を持った同士たちがどうなったか描かれなかったのは残念です。
しかし、『復讐』というものを正義の行為として描いているところは、やはり新しいところなのかなと思います。
以上が「鬼滅の刃の人気の理由」「鬼滅の刃を最後まで読んだ感想」です。
かなりの長文になりましたが、最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。
それでは次の記事で!