近年SNSによる事件が後を絶たちません。いわゆる「炎上騒動」には、現実の火災と同じようにやじうまがいます。
いたずらや犯罪行為をSNSに投稿している人を見つけると、一斉に飛びついて袋叩きにする。はたして、この行動に正義はあるのでしょうか?
SNSにいる自称「正義の味方」は、本当の正義の味方と言えるのでしょうか?
いくら「やらかしてしまった人」が悪くても大人数で晒しあげるような行為は、どこか「卑怯」と感じてしまいます。
中には本当に事件解決や、やらかしてしまった人の反省を望んでいる人もいるでしょう。しかし、面白半分やストレス解消でやっている人がいるのもまた事実です。
さらに、たとえ正義感からくる行動でも、ただの一般人が一般人を罰するという行動は、どうなんでしょうか?
ズルをしている人や悪いことをしている人に対する怒りは、冷静な判断力を失わせ、いつの間にか自分が加害者側になってしまうこともあるかもしれません。
そこでこの記事では、「どこまでが法に触れるのか?」というような難しいことは他の記事に任せるとして、
「ガンダム」や「スパイダーマン」を例に出して、オタク的に匿名SNSの自称『正義の味方』の行動に、実際のところ「正義はあるのか?」考えていこうと思います。
目次
匿名の正義の味方はありなのか?匿名のヒーロー『スパイダーマン』。
「顔も見せずに一方的に人を叩く。」これだけ聞くと卑怯なイメージがあります。
しかし、同じく顔や正体を隠して正義の味方をやっているキャラクターがいますよね。
そう『スパイダーマン』です。
顔をマスクで隠し、常人離れした力で犯罪者を退治する。ヴィランはともかく、大抵の犯罪者を一方的に捕まえて警察に突き出してしまいます。
『SNSの自称正義の味方』と『スパイダーマン』では似通っているところが多々あります。
しかし、かっこよさには雲泥の差があるのは何故でしょうか?
まずは共通点を上げていきましょう。
1つ目は警察ではないところです。スパイダーマンは公的な機関に所属している訳ではありません。あくまで自警団の扱いです。自発的に悪を退治しているのです。
2つ目は義務の有無です。上記の通り、スパイダーマンはあくまで自警団扱いで、なんの制限もなければ法的拘束力もありません。
だから「悪者に負けちゃった」でも許されますし、「悪るい人かと思ったら人違いでした」でも、ある程度許されてしまいます。
SNSの正義の味方が、『やらかした人』をみつけて晒しあげたとしても、『やらかした人』が逮捕されようがされまいが、SNSの正義の味方にはなんの関係もありません。
「晒した人が実はなんの関係もない人でした」となれば、訴えられれば負け確定です。しかし、晒された人が泣き寝入りすればなんの制裁もありません。
しかし、警察のような国民の税金で成り立ち、国民の安全を守る義務と責任をもっている組織ではそうはいきません。
「犯人を取り逃がした」「誤認逮捕」となれば、大問題になってしまいます。国民を守る義務と責任があるからこそ仕事が慎重に、丁寧になっていきます。
では『スパイダーマン』と『SNSの正義の味方』は同じなのでしょうか?(あんなにかっこいいスパイダーマンが…それはいやだ。)
しかし、同じではないと思います。
『スパイダーマン』と『SNSの正義の味方』には決定的な違いが存在します。その違いとは「覚悟があるかないか」「献身の心があるかないか」ではないでしょうか?
『スパイダーマン』には、「事件に首を突っ込むからには、命を失うかもしれない。」という覚悟があります。悪者と戦えば返り討ちに合うかもしれません。
それでも市民を守りたい献身の心があるからこそ、自分の身に危険が及ぶかもしれないことを覚悟して戦います。
しかし、『SNSの正義の味方』はどうでしょうか?自分が逆に訴えられる捕まるかもしれないこと、自分の家族にも被害が及ぶことを覚悟していません。
さらに「ずるしてる人」「楽しそうにしている人」へのイライラから晒しという行動にでる為、軽率に発言を発信してしまいます。
「人違いだったら名誉毀損で訴えられる。」「晒した人や周りの人が傷ついて自殺したら、自分が自殺に追い込んだことになる。」そんな覚悟がないのです。
もちろん覚悟があればなんでもやっていいわけではありません。
しかし、匿名をいいことに自分だけ晒す側にまわろうという覚悟の薄さが、何となく「卑怯」と思ってしまう原因かもしれません。
持つものは奉仕しなければならない。『ギフト』という考え。
『ギフト』才能を授かったものは、それを社会に奉仕しなければならない。スパイダーマンの『自警団活動』もこういった考えからきています。
欧米では、ギフテッドとは「神様が特別に選んであたえた才能、ギフトを授けた」という認識が広まっています。ギフトを授かった子供の才能を潰さず活かしていくこと、そのことをギフテッド教育といいます。
ただ、ここで言いたい事は「日本の教育がどう」とか「子供の個性がどう」とかではなく、ギフトの「才能を授かったものは、それを社会のために奉仕しなければならない」という考え方です。
「個性を潰さない」「ここの才能をみる」日本にも徐々に広まりつつある考えですが、『ギフト(才能を授かったものは、それを社会に奉仕しなければならない)』という考えは、
日本にはあまり浸透していません。(ギフトの概要については映画『ギフテッド』でわかりやすいかつ感動的に描かれているのでおすすめ。)
物事の善悪が分かるのも立派な才能、SNSを使えるのも立派な才能と考えるなら、『SNSの自称正義の味方』も、立派な社会奉仕活動なのかも知れません。
しかし、実際のところ行われているのは奉仕活動ではなく、ただ「自分より楽しそうなやつ許せない」という僻みが原動力の人が多いでしょう。
「自分より稼いでるやつ」「自分より楽しそうにしてる奴やつ」そいつらが犯罪に触れようものなら、これみよがしに炎上させようとすることは、『ギフト』の精神からきているとは思えません。
高貴なるものにはそれに伴う義務と責任がある。『ガンダムF91』の貴族主義。
『特別な力をもつなら、それ相応の責任と義務が発生する。』スパイダーマンにもギフトにも通じる考え方です。
この考え方は、富野由悠季監督が『ガンダムF91』で描いたコスモ貴族主義からきます。
特別な力(指導者、モビルスーツに乗れる、貴族の家庭)を持っているならば、それ相応の責任と義務が発生するのです。
単なる貴族主義とは違い、「貴族として人よりいい暮らしをするのなら、その分一般人より苦労もしなければならない。」という考え方です。
戦争をするなら最前線に立ち、ロボットに乗るなら誰よりも使い方が上手くなければならないのです。
ここから学べるのは、「他人を諌めるものは、他人の倍以上勉強をしなければならない」ということです。
もちろんSNSを利用するものが注意し合い、犯罪を抑制することは大切なことです。
しかし、そこに「自分の方が正しい」「あなたは間違っている」という思いがあり、自分が注意する側の人間だと思うのなら、SNSに関することや法律について人の倍以上勉強して、何かあった時は身をもって責任と義務を果たす必要があります。
SNSで正義の味方をやりたいなら、「注意する」なら「注意する」内容に対して、人一倍勉強するのが義務であり、自分の行動がもとに何かあったら、それ相応の責任をとるべきなのです。
『指導するものと指導される側にわかれるのなら、指導する側は人の倍以上勤勉でなければならない』
努力家の富野由悠季監督らしい、富野由悠季監督だからこそ伝えられるテーマだと思います。
匿名にもある義務と責任。
わざわざ『スパイダーマン』や『ガンダム』を例に出して話しましたが、結局何が言いたいかというと、匿名だからといって責任や義務がないわけでわないということです。
ここまでSNSの自称正義の味方の人達が、まるで悪者のような書き方をしてきましたが、そういった人達のおかげで卑劣な犯罪が明るみになることがあるのもまた事実です。
ただ、それはたまたまなんの間違いも起きなかっただけのことであり、もし何か情報に間違いがあれば、傷つかなくて済んだ人達まで傷つくことになるのです。
「自分の発言には責任を持つ」そんな当たり前の事が、SNSの匿名という特性によって麻痺してしまいます。
『言葉で人を殺せる』
富野由悠季監督の書いた小説の中キャラクターのセリフで、意味合いも本記事で取り上げているものと少し違いますが、とても印象的な言葉だと思います。
こんな記事最後まで読んでくださる、心の広い方に限って縁のない話かもしれませんが、くれぐれもSNSの匿名性には注意しましょう。
それでは次の記事で!