こんにちは、ありすけです。
今回は、『チェンソーマン』と宮沢賢治の名作『よだかの星』が繋がる関係と、伏線について考察していこうと思います。
『チェンソーマン 2部』の連載開始から、とうとう謎多き悪魔の戦争の悪魔の名前に“ヨル”という名前がつくところまで進んできました。
主人公の名前がアサなのに対してその半身である戦争の悪魔の名前がヨルというのも直球でいいですよね。
戦争の悪魔といえば、初登場時が夜で、印象的な尖った嘴の鳥の姿から、正体はフクロウなんじゃないかという考察がありました。
しかし、セリフや行動から察するに正体は“ヨタカ”が正解なようです。
ヨタカといえば、宮沢賢治の童話「よだかの星」が有名です。
そして『チェンソーマン 2部』のシナリオも、よだかの星が意識されて構成されているようです。
そこで今回は、『チェンソーマン 2部』とよだかの星の関係について考察していきます。
目次
『よだかの星』とは。宮沢賢治の描く「いじめ」「食物連鎖」「転生」「罪悪感」
よだかの星とは、宮沢賢治による短編小説で、国語の教科書にも乗るほど有名な作品ながら宮沢賢治独自の感性や思想を楽しめる私小説的な一面を持っている作品です。
よだかの星あらすじ
よだかは自らの外見の醜さゆえ、周りの鳥達から疎まれ、蔑まれ、悪口をいわれて仲間外れにされていた。
さらには鷹から名前が似ているから不愉快だと言われ、次の日までに名前を“市蔵”に改名しなければ殺すと宣告されてしまう。
自暴自棄になったよだかは、外見が醜く運も悪いどうしようもない自分が、小さくて弱い羽虫達を食べて、命を奪って生きていることにも絶望する。
故郷にいられなくなったよだかは、焼け死んでもかまわないから太陽のもとへ行きたいと念願しますが、太陽からは、「夜鷹は夜の鳥だから星の所へ行きなさい」と告げられる。
よだかは星の元へ行きたいと懇願しますが、星からはまったく相手にされない。
しかし、よだかはそれでもよだかは必死に飛び続けるうちに、いつまでも青白く燃える“よだかの星”になった。
国語の教科書にも載るほど有名な『よだかの星』は、子供向けには「見た目や身体的特徴で差別してはいけない。」という教訓話になっていて、大人向けには宮沢賢治特有の感性や、「非暴力は時に暴力よりも残酷。」という恐ろしさも感じることができるような構成になっています。
特によだかが自分の醜さに絶望し追い込まれ、「虫を喰わなければ生きられない」という命を奪って生きることに対する罪悪感は、ベジタリアンだった宮沢賢治の私小説としてみてもおもしろいです。
そして、宮沢賢治が『よだかの星』の中で描いた「いじめ」「食物連鎖」「転生」「罪悪感」という4つのテーマは、特に『チェンソーマン』2部にもつながっていきます。
食物連鎖と転生。『チェンソーマン2部』×『よだかの星』。
『よだかの星』の作中には、よだかが「自分が羽虫を食い、羽虫を何匹も食った自分が鷹に殺される」という食物連鎖の流れに絶望する場面があります
『注文の多い料理店』など、宮沢賢治の作品では度々“食物連鎖”がテーマになります。そして『チェンソーマン2部』では、この“食物連鎖”からすべての物語が始まります。
“いのちの授業”として『チェンソーマン2部』の主人公三鷹アサが通う高校のクラスに、コケピーという悪魔が連れてこられたところから物語が始まります。
コケピーは鶏の悪魔で、先生はコケピーを3か月間クラスで育て、最期にはみんなで殺して食べると言いました。食物連鎖を学び、命の大切さを知るために先生が用意した授業です。
光合成で植物が有機物をつくり、植物を食べる草食動物がいて、草食動物を食べる肉食動物がいて、肉食動物の死骸を食べる分解者がいて、分解者が植物のエネルギーになります。
鶏の悪魔が食べられるのかどうかはひとまず置いといて、食物連鎖の流れをちゃんと勉強することに意味はあると思いますが、三鷹アサのクラスは最終的に食物連鎖の流れを拒み、コケピーを生かすことを選択しました。
この選択を第三者が正解か間違いか決めることはできません。しかし『チェンソーマン2部』においてはこの選択が悲劇を生むことになります。
食物連鎖の流れから抜けることができたコケピーの命は、助かった数時間後に三鷹アサに奪われることになります。
悪魔とはいえ、すでにクラスの中で人気者のコケピーを殺してしまったたアサは、事故だったといえどクラスから居場所を失ってしまいます。
アサはクラスメイトからのけ者にされたり、靴箱に鶏肉を入れられたり、わざと聞こえるように陰口を言われるという陰湿ないじめをうけることになりますが、これはまるで『よだかの星』でよだかが受けていた扱いをアサは体験しているかのようです。
結果アサは、自殺を考えるくらい追い込まれてしまいますが、先に正義の悪魔に襲われたところに戦争の悪魔に助けられたことで、死を回避することができました。
正確には一度死んだ瞬間に戦争の悪魔の力で生き返った形になります。
戦争の悪魔(よだか)が現れなければ、日常的に自殺を意識していたアサは正義の悪魔に襲われていなくとも、そのうち自ら死んでいたかもしれません。
『よだかの星』ではよだかは自分が周りから迫害を受けて孤独になったことで、はじめて自分より弱い小さな虫の存在に気が付くことができました。
そしてアサもクラスから孤立して初めて、皮肉にも自分以外も自分と同じ弱くて卑しい欲を持っていたことを知ります。
いじめは許されませんが、クラスメイトからいじめられる前のアサは、周りを問答無用に拒絶し、無意味にひたすら嫌悪していました。
それが最新話では、友人はいらないと言いきっていたアサがユウコという友人を大切に思うことができています。
親を失い自暴自棄になって、人間性を失っていたアサは、逆境を糧にすることで徐々に生きる意思と新しい自分を得ることになります。
一度死んで転生したアサはよだかのように夜空に輝き続ける星になれたのか、それともまったく別の存在になってしまったのか。
予想されるクラスメイトの残酷な未来。食物連鎖を軽んじる系キャラの末路とは。
食物連鎖を軽んじたキャラクターが痛い目を見る作品は過去にもいくつかありますが、中でも有名なのは『ジュラシックパーク』です。
今でも最新作が公開される、恐竜映画の金字塔『ジュラシックパーク』の一作目に、自称ベジタリアンの“レックス”という女の子が出てきます。
レックスは動物がかわいそうという理由でベジタリアンを主張しますが、純粋に肉の臭みが苦手だから菜食主義を名乗っているだけのようだったり(動物性たんぱく質でできたゼリーは食べる)、世間知らずで登場人物たちを危険な目に合わせてしまいます。
肉をたべる人を小ばかにした様子や、恐竜から襲われたときは自分よりも幼い弟以上に慌てふためく様子は、多くの観客からヘイトを集めてしまいます。
現実にもいそうな“ウザイキャラ”が痛い目を見るのを楽しむのが、モンスターパニック系のいわば“お約束”ですが、レックスはただのやられ役で終わりません。
恐竜達が闊歩する無法地帯となってしまったジュラシックパーク内で、レックスは生きるか死ぬかのサバイバルを経て成長していきます。
ジュラシックパーク内で草食恐竜と肉食恐竜の食物連鎖の営みを生で目にして、レックスは食物連鎖に対する理解を深めていきます。レックスをみているとベジタリアンが正しいか正しくないかではなく、なぜそういうことを考えるのかが大事なことがよくわかります。
映画の終盤では妄信的にうわべだけベジタリアンを語っていたレックスの姿はなく、恐竜を慈しみ、みんなの窮地を救う頼りになる立派なお姉さんとして成長しました。
そんなレックスに対し、成長の餞別なのか映画のクライマックスで凶暴な小型肉食恐竜のヴェロキラプトルにレックス達が襲われそうになったとき、食物連鎖の頂点であるティラノサウルスが助けてくれます。
レックスの成長が観客にわかると同時に、恐竜の派手なシーンも組み込まれている最高の脚本だと思います。
『チェンソーマン2部』では、アサという女の子が周りを敵視していましたが、自分が死ぬ寸前にこれまでの自分の行動や周りに対する偏見を悔い改め成長できたことで戦争の悪魔に命を救ってもらうことができました。
アサは一度死ぬまで、他人を無意味に拒絶し、心の中で「死ね」とはき捨てるような女の子でした。それが今では他人を思いやることができています。
ただ心配なのはアサの境遇に同情してくれていたクラスメイトも、アサがコケピーを殺した今ではアサを白い目で見ていることです。
ここから生まれ変わったアサが、どうやって関係を修復していくかも見どころなんですが、なんとなくクラスメイトは痛い目をみるきがします。
コケピーの一件以降、アサに対してクラスメイトは陰口を言ったり、靴箱に鶏肉を入れる陰湿ないじめをしています。
悪魔といえど、大事な友達を殺した相手を嫌う気持ちはわかりますが、鶏肉を下駄箱に入れるのは“いのちの授業”も“コケピーの死”もまったく無意味だったことを物語っています。
ここからは個人的な妄想ですが、『チェンソーマン』の世界では20人中7人が悪魔に殺されるほど治安が悪い世界らしいので、アサのクラスメイト達は強力な悪魔に食べられることで、身をもって“いのち”と“食”について学ぶんじゃないかなと思います。
『チェンソーマン2部』は転生ものだった!?よだかと悪魔の転生の違い。
『よだかの星』では“食物連鎖”と“転生”がよだかの死に大きく関わっています。そしてこの二つのテーマは『チェンソーマン』に登場する悪魔を連想させる言葉でもあります。
『チェンソーマン』の世界で悪魔は一度死ぬと地獄で蘇り、更に地獄で死ぬとまた現世に蘇るそうです。
この輪廻転生は、『よだかの星』で描かれた宮沢賢治の仏教思想とも「心が清いものが美しいものに生まれ変わる」という物とも違います。
中には、支配の悪魔のように凶悪な悪魔が転生して無垢で純真な存在に生まれ変わるという例もあります。
藤本タツキ先生は美術品や宗教画、宗教話を物語でオマージュすることで有名なので、ただ単に『よだかの星』の言葉やストーリーにインスパイアを受けただけかもしれませんが、『チェンソーマン』2部では転生という現象が悪魔ではない三鷹アサにも起こりました。
1部ではデンジも一度死んで、悪魔のポチタに命を助けられていますが体は完全にデンジのもので、脳も意識もデンジのものでした。そしてデンジは死ぬ前と死んだ後で性格も変わっていませんし、むしろ自分の欲求により忠実になっています。
しかし、2部主人公の三鷹アサは戦争の悪魔の人格が体内にいます。
アサは死ぬ間際に自分のこれまでの行動を悔いました。まだ生きたいと願ったのはデンジと同じですが、デンジとアサの違いは生まれ変わりたいという欲があったことだと思います。
今度こそ自分に正直に生きよう。そう思ったあアサは生まれ変わることができました。
戦争の悪魔に助けられた後のアサの体の所有権は戦争の悪魔の物になってしまいましたが、アサの脳みそが半分だけ残っているので自分の意識はあるという状態です。
死ぬ前に学んだ教訓と強力な能力を手にして生き返ったアサはまさに転生したと言っても過言ではないでしょう。
アサの現実は血塗られていて、よだかの星のように綺麗なものではありませんが、それもこれからの行動次第です。
夜空に輝き、青白く綺麗に燃え続ける星のような存在になるのか、戦争の悪魔の力をつかってこの世を燃やし続ける煉獄の炎になるのか?これからの展開が楽しみです。
悪魔と人間の切れない“縁”。作者が語る2部で明かされる予定の謎とは。
『チェンソーマン』の世界では悪魔は本当の意味で死ぬことはありません。悪魔は地獄で生まれ、地獄で死ぬと人間界に生まれ、人間界で死ぬとまた地獄で生まれます。
生まれなおすごとに人格はリセットされますが、人間が恐怖する対象がある限り悪魔は生まれます。逆を言えば悪魔は人間がいなければ生まれてくることができません。
悪魔は力をつけようと人間を襲い恐怖を集めても、全滅させてしまったら元も子もありません。
悪魔の中には天使の悪魔のように生にあまり執着していないキャラクターもいますが、輪廻転生から抜けることができるのは今のところ3つの方法しか思いつきません。
・チェンソーマンに食べられる。
人間が恐怖の対象を思い出せなくなることで、存在が消える。
・人間から恐れられなくなる。
悪魔は人間から怖がられなくなるほど弱体化します。もしこの世から一人も恐怖する人がいなくなったら消えてしまうかも?天然痘の悪魔が昔はいたかもしれません。
・人間を絶滅させる。
作中では戦争の悪魔が核兵器を持ち出そうとしていますが、もし何かの手違いで人間を全滅させたら悪魔は生まれてこなくなってしまいます。
このように悪魔と人間は奇妙な関係にありますが、『チェンソーマン2部』ではなんとチェンソーマンの食べた悪魔の存在を消せる能力について深堀されることが、作者のインタビューで明らかになっています。
死んでも生まれ変わる輪廻転生は人によっては希望にも絶望にも感じるでしょう。悪魔の出生の秘密もいつか明かされることがあればそこにはよだかの星のような悲劇とも奇跡ともとれるようなお話があるかもしれません。
内面が醜かったアサと外見が醜かったヨル。
三鷹アサはコケピーを殺してしまうという、自らの行いによっていじめを受けてしまいます。
醜い見た目でいじめを受けていたよだかとは違い、むしろコケピーの一件より前はクラスメイトから親がいないことで同情をされていました。
アサがクラスメイトを拒絶していた側だったのが、いつの間にか拒絶される側になっています。コケピーを殺したせいでもあるでしょうが、これって実は戦争の悪魔の影響があるのではないでしょうか。
戦争の悪魔のモデルは“ヨタカ”です。
作中では目が飛び出ていて毛並みの汚い醜い鳥の姿と顔の真ん中に痛々しい傷を負った三鷹アサのヨル状態の姿が登場しています。
はじめはフクロウがモデルかと思いましたが、自分のことを“ヨル”と名乗ったり、姿の醜さが強調されて描かれていることから『よだかの星』のよだかのモデルになった鳥“ヨタカ”で間違いなさそうです。
『よだかの星』でよだかは、朝日に拒絶されていました。しかし、『チェンソーマン』では、ヨルはアサから好印象というほどではないものの、拒絶されずになんだかんだいいコンビをやっているように見えます。
戦争の悪魔がなぜチェンソーマンを倒そうとしているのか?なぜ弱弱しい鳥の姿なのか?その正体と目的はまた考察動画をあげれたらいいな思っています。
もしかすると戦争の悪魔は、“戦争”という自らの呪われた出自と醜い見た目がコンプレックスでどうにかしたいと思っているのかもしれません。
自分と似た境遇のアサとかかわって戦争の悪魔がどう変わっていくのかも、これからのみどころです。
『よだかの星』と『チェンソーマン2部』が描く“罪悪感”に注目。
『チェンソーマン』では“罪悪感”がとても大切な感情として描かれています。
人形の悪魔は、罪悪感が人形を人間にするために込めなければならない大切な感情の一つだと語り、マキマはデンジの父親を殺した罪悪感をつかってデンジを廃人にする計画を立てていました。
そして『チェンソーマン』2部では戦争の悪魔が武器にする人間は、武器にする人間に対する使用者の罪悪感が大きければ大きいほど強くなるという設定まで出てきました。
『よだかの星』でもよだかが感じる罪悪感がとても丁寧に書かれていました。
これは、ベジタリアンの宮沢賢治が生前に感じていた自分の生に対する罪悪感が色濃く反映されているそうですが、『チェンソーマン』でも藤本タツキ先生なりの考え方が作品ににじみ出てきているのかと想像すると面白いですよね。
戦争の悪魔は正義の悪魔の手を切り落として武器にしたように、戦争の悪魔は人に限らず悪魔でも武器に変えられるようなので、コケピーを武器にしたら三鷹アサの罪悪感も相まって強力な武器ができると思っていたんですが、なんとアサはコケピーを殺したことに関しては悔いていませんでしたね。デビルハンターの素
質ありですよね。
この“罪悪感”という感情は『チェンソーマン』2部の中でもまだまだ掘り下げられていくと思うので、これからのストーリーを罪悪感という感情をポイントに読んでいっても面白いかもしれませんね。
『チェンソーマン』2部のこれからの展開が楽しみです。