【風の谷のナウシカ庭の主とは?正体は世界の真実を知る“ヒドラ”!?後のジブリ作品の演出に繋がる恐ろしさについての記事をご覧いただきありがとうございます。
この記事では『風の谷のナウシカ』の考察として、庭の主について考察・解説していきます。
宮崎駿監督最新作2023年7月14日に公開予定『君たちはどう生きるか』。
ジャンルは“冒険活劇ファンタジー”ということで、もしかしたら似たモチーフが出てくるかもしれません。
庭の主の戦闘描写(?)には『ハウルの動く城』などの後のジブリ作品、宮崎駿作品に通じる“恐怖演出”があります。
目次
庭の主とは。世界の秘密を知る謎の人工人型生命体。
キャラクター名 | 庭の主 |
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登場作品 | 風の谷のナウシカ |
登場回 | 漫画『風の谷のナウシカ』第7巻 |
能力 | 精神攻撃、“庭”に依存させる |
印象的なセリフ | 「この庭にあるもの以外に次の世に伝える価値あるものを人間は造れなかったのだ……。」 |
庭の主とは、土鬼の聖都シュワの付近にある庭園を管理しているヒドラの上位種です。
通常のヒドラは単純命令しかこなせないのに対し、庭の主は知性と理性を兼ね備えており人間との会話ができるどころか、超能力による念話、高度な会話術を会得しています。
庭には火の七日間が起こる以前の動植物、あらゆる詩や音楽が貯蔵されており、 腐海による浄化システムによって世界の浄化が完了するまで、文化遺産を伝える庭を管理する役目があります。
ナウシカや蟲、腐海が人工的に生み出されたことを知っており、外界から立ち入って世界の真実を知ったものに対しては、相手の心を探り、心の隙をつくことで精神的に束縛し、庭の中に引き留めようとします。
庭の主は相手によって姿を帰ることができますが、基本形は女性とも男性ともとれるような整った容姿をしていますが、貼り付けたような笑顔は見ようによっては不気味です。
墓所の主と対になる庭の主。優しいけど残酷な墓所の主と残酷だけど優しい庭の主。
庭の主とは、 ナウシカ曰く残酷だが優しい人物とのこと。
それは“庭”を訪れた者は、基本的に一生出られないからです。庭は庭の主によって安らかな場所が整えられており、腐海によっていつ死ぬかわからない外と比べると、まさに天国のようで外に出ていく気を失ってしまいます。
庭の主曰く「我々も時に油断する」らしく、彼の意識が弱まった時を狙って脱出する事はできる様だが、それも並々ならぬ強い意志と覚悟がなければ不可能な模様です。
ナウシカ以外に出れたものは、土鬼の神聖皇帝ただ一人だけであり、いかに“庭”が恐ろしい楽園なのかわかります。
※土鬼・神聖皇帝についての詳しい考察解説はこちら
庭の主は旧人類にも、ナウシカ達人工人類にも希望を持っておらず、「どうせ愚かな歴史を繰り返すのだから、私の庭で安らかに過ごせばいい。」というスタンスです。
ナウシカに対しても容赦なく「ナウシカや王蟲は人造生命体であること」「浄化された世界では人造人間は生きることができないこと」など現実を突きつけ、精神を揺さぶることで庭に束縛しようとします。
しかし、一方で墓所を破壊しにいこうとするナウシカの命を奪うことはしなかったり、真剣な問に対しては、嘘をつかなかったりと誠実で思いやりがあることがわかります。
ナウシカは、庭の主を“残酷だが優しい人物”と評しました。一方彼によく似た立場、容姿をしていながら性格は真逆なキャラクターが登場します。それは墓の主です。
墓所とは、旧世界の破壊兵器や不死の技術などを保存しています。墓所の主は庭の主と顔が似ています。 どちらも人造生物なので、デザインが似ているのはおかしくありません。
庭は真に価値あるもののみを詰め込んだ箱舟だとするなら、墓所は旧世界の武器や不死の技術、旧世界の人間の卵など負の面を詰め込んだ箱舟です。
そんな墓所の主は、ナウシカ達を歓迎し、救済するような素振りはみせるものの、腹の中では来たる新世界でナウシカ等人造人間たちを奴隷にしようと考えていました。
墓にたどり着いたナウシカ達を甘い言葉で誘惑するも、その言葉には欺瞞まみれで、交渉が決裂となると最終的にはナウシカ達を殺そうとしました。
語る言葉は残酷でも、嘘はつかず命をとることは決してしない庭の主と、聞こえのいいセリフを並べて、従わいものは殺そうとする墓の主は、顔は似ていても対照的なキャラクターだといえます。
庭の主から学ぶ宮崎駿流の“こわい”演出。
【風の谷のナウシカ】
庭の主の精神攻撃とサリマン先生の精神攻撃が似てる…。どっちもこわい
— アリスケ (@walking_planets) April 7, 2023
庭の主の描写には巨神兵のような派手な戦闘描写も王蟲のような神秘的な描写もありませんが、精神攻撃描写はものすごく恐ろしいなにかを感じます。
常に優しい笑みを浮かべているのに油断ならない感じは、後の宮崎駿作品に登場する“銭婆”や“サリマン”に通じる恐ろしさを持っています。強者の浮かべる余裕の笑みってやつですね。
また彼の顔にあたる光の演出も見事です。
庭の主がナウシカに対して油断を誘うようにすりよる時や、ナウシカに希望を見出したときは、読者が庭の主に対して人間性を感じるように正面から光が当てられています。
それに対し、ヒドラの本性を表しナウシカに対して精神攻撃を仕掛けているときや、ヒドラ故の世界に対する諦念を感じている時には、非人間性を感じるように逆光になり、顔に影が落ちています。
ナウシカとセルムに対して行われた庭の主による精神攻撃は、『ハウルの動く城』のサリマンによるソフィーとハウルに対する精神攻撃を思わせます。
庭の主が精神攻撃を仕掛けると、雲の上にいるような幻覚に引き込まれてしまいます。足場が消えて、今にも落ちるような恐怖の中で平静をたもつのは至難の業でしょう。
改めて人間にとっては「落下」というのが生来感じてしまう根源的な恐怖だと思ってしまうような描写です。
庭の主の最期。業を繰り返す愚かな人間をそれでも愛する。
庭の主は外の世界では、旧世界の人間も合わせて何度も人間を救済しようとする人間が現れ、その旅に失敗していったことを語ります。
しかし、真実に苦悩しながらも、それでも曲がらないナウシカの強い意思に根負けし、庭の主は本来守らなければならないはずの墓所にナウシカが向かうことを許してしまいます。
ナウシカより前に庭を出ていった神聖皇帝は「人間を救いたい」と心から願いヒドラを連れていきましたが、旧世界の力によって生まれた平安は所詮圧政であり、業が業を生み悲しみの連鎖が大きくなっていっただけでした。
しかし、それは決して無駄だったとは思えません。不死の力もヒドラの技術も、自分の身に余るものだろうと理解していこうとする姿勢は大切です。
業を繰り返してもいつか抜け出そうとしていればきっと糸口が見つかります。神聖皇帝がいたからこそナウシカも巨神兵と出会うことができたし、戦争があったからこそ腐海の深部や秘密に迫ることができました。
ナウシカの「私達は血を吐きつつくり返しくり返しその朝をこえてとぶ鳥だ!」というセリフがあるように、無駄かもしれないし自分の代では果たせない事なのかもしれなくてもやり遂げようとする意思を庭の主は感じたのかもしれません。
動物や園丁の死、土鬼の王の失敗を何度も見て呆れていた彼だからこそ、それでも諦めずくり返し試行錯誤を重ねていくのが生命の本質だと語るナウシカに希望を見出したのかもしれません。
「もうとめはしない、だがそなたのためにこの庭の入り口はいつも開けておこう」
ナウシカならもう戻ってこないと確信している上での庭の主のこのセリフは、ナウシカに対する最大限の敬意が籠った餞別だと思います。
まとめ。人工生命体コンプレックスをほぐしてくれたのはナウシカだけ。
“庭の主”…名前だけ聞くとなんだかのほほんとしていますが、その正体はジブリ作品の中でも一二を争う強キャラで恐ろしい人物です。
彼が本気を出していたらナウシカは死んでいたし、精神的にも物理的にも墓所の主よりよっぽど手強いキャラクターだと思います。
以上まとめると
- 漫画「風の谷のナウシカ」に登場する庭の主の正体は腐海による浄化システムによって世界の浄化が完了するまで文化遺産を守る為に造られた人工生命体ヒドラ。
- ナウシカ曰く残酷だが優しい人物。
- 読心術、念話、精神攻撃、変身能力など多彩な攻撃方法を持っており、その気になればナウシカを倒せた。
- 庭の主が行う精神攻撃の描写は後のジブリ作品でもみられる。
庭の主は確かに恐ろしい描写も多いですが、読み返してみると最初からナウシカのペースだったような気もします。
ナウシカがテトを埋葬していた時、庭の主は巨神兵を連れているナウシカに対して「不思議な眺めだ」「死神を連れた者が小さな動物の死に涙している」といって近づいてきました。
それに対してナウシカは「あなたは親しい友の死をその体の大きさで量るのか?」と返され謝罪しています。
さらにナウシカは自分たちや蟲が人造生命体だと知っても、「精神の偉大さは苦悩の深さによって決まる」「たとえどんなきっかけで生まれても生命は同じ」「ヒドラでさえも」と言っています。
庭の主は旧世界人からは“番犬”として造られ、腐海に敬意を払っているような森の人からも「“よくできた”ヒドラだ」と言われていました。
もしかすると庭の主自身も、自分が“造られた生命体”であることにずっと苦悩しており、だからこそ命を真に平等にみているナウシカについうっかり心を開いてしまったのかもしれませんね。
以上、最後までお読みいただきありがとうございました。