2021年3月8日に、ヱヴァンゲリヲン新劇場版シリーズの完結作である『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』がついに公開されました。
終盤につれて畳み掛けるような、怒涛の展開に、最終作にもかかわらず、続々出てきた新しい『エヴァ用語』は、さすが庵野秀明総監督作品といったところです。
今回の記事の前半では、これまでの作品におけるゲンドウについて掘り下げていこうと思います。(前半シンエヴァのネタバレ無し)
そして記事の後半では、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の劇中にて、1番盛り上がり、1番難解な部分でもあるラスト1時間、
特ににシンジVSゲンドウについて考察、解説していきたいと思います。(後半シンエヴァのネタバレ含)
エヴァ用語解説に加え、シンジとゲンドウを中心とした考察をしていきます。
※2021/03/17 追記あり
目次
- 今まで謎だったゲンドウの目的はエヴァ13号機との融合でほぼ確定。
- ゲンドウは何故エヴァ13号機と融合したいの?
- 『エヴァンゲリオンQ』では何をやっていたのか?
- ガフの扉って何?
- 結局『エヴァンゲリオンQ』『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』では誰と誰が争ってるの?
- 『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の前半1時間VS後半1時間=希望VS絶望=シンジVSゲンドウ
- どっちが大人か勝負!?初号機VS第13号機。現実を認められないゲンドウVS現実を受け止めるシンジ
目次
今まで謎だったゲンドウの目的は、エヴァとの融合
こちらの画像をご覧下さい。こちらは特報映像2で公開された映像。十時に磔にされている13号機に下によく見るとゲンドウが立っています。
あの十字架の拘束具は、エヴァ初号機に碇ユイがダイレクトエントリーした時の物と同じ物です。つまり、ゲンドウは13号機に自らもダイレクトエントリーする気なのでしょう。
新劇場版『エヴァンゲリオンQ』で13号機は覚醒を果たしました。しかし、カヲル君の犠牲により、ロンギヌスの槍2本を使う事でフォースインパクトギリギリで食い止める事が出来ました。
ゲンドウの願いは、あと一歩届かない所で『エヴァンゲリオンQ』は終わりました。それでもゲンドウはまだ、エヴァ13号機との融合を諦めていません。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の大筋は、ゲンドウが13号機と融合を果たし、ガフの扉を開ける事ができるのか、はたまた葛城ミサト率いるヴィレのメンバー達が、それを食い止めるかの勝負になるでしょう。
ここまで読んで「筆者がなにを言ってるかわからないよ!」という人のために、簡単な『エヴァンゲリオンQ』の終盤の出来事の解説&用語の解説。
そして、そもそもなんでゲンドウはエヴァ13号機と融合したいのかを順を追って、解説していきたいと思います。
なぜ、ゲンドウはエヴァ13号機と融合したいのか
この考察をする前にひとつの仮定を立てます。それは新劇場版は『ゲンドウと家族(ユイとシンジ)』の物語という事です。
エヴァQで冬月は、シンジに「碇(ゲンドウ)はあらゆる犠牲を払って自分の願いを叶えようとしている。自分の魂もだ。」
と語っています。新劇場版から追加されたシーンでは、シンジとユイ(シンジの母親)について語るシーンや、綾波レイのシンジとの食事会への誘いを受けるシーンがあります。
こういったシーンの追加から、ゲンドウは家族の存在を旧シリーズよりかなり意識している事が伺えます。
ただ、やろうとしている事は旧シリーズとほぼ同じです。
それは、初号機に補完されているユイ(ゲンドウの妻)に会うこと、つまり、「アダムとリリスの禁じられた融合」です。(旧劇場版ゲンドウのセリフより)
アダムとはゲンドウで、リリスとはユイの事を指します。しかし、この目的を果たすには、やらなければならない事が大きく分けて3つありました。
ゲンドウやることリスト
- 全12体の使徒を10体倒すこと。
- 残りの2体の内現アダム(カヲル君)を殺し自分がアダムになる事
- ユイが初号機入ったように、自らもエヴァ13号機に入る事。
1つ目はQの時点で一応達成しました。
しかし、2つ目は、Qの時点でアダムであったカヲル君を13号機の覚醒と共に排除する事は出来たものの、13号機に同乗していたシンジがアダムの座に座ってしまいました。
自らがアダムになるため、ゲンドウはシンジを排除するのか、それともまた別の選択をするのか。『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』ではそこも見所の1つです。
3つ目は、破の時点でゲンドウは『神と魂をつなぐ鍵、ネブカドネザルの鍵』を手に入れているため、2つ目の項目が達成次第すぐにでも出来るでしょう。
新劇場版『エヴァンゲリオンQ』は何をやっていたのか?
何をやっていたか、簡単に言えば上記のゲンドウやることリストの2つ目の途中まで。
カヲル君を第一使徒(アダム)の座から落とした所までは良かったのですが、肝心のアダムの座にはシンジが座ってしまいました。
冒頭10分や特報映像2が公開され『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』が『エヴァンゲリオンQ』のすぐ後の話だということがわかりました。
『エヴァンゲリオンQ』は『エヴァンゲリオン破』の正式な続編なのは変わりませんが、破から14年立った世界という設定もあり、内容がうまく理解できなかった人も多いでしょう。
エヴァ破で綾波レイを取り込み、覚醒を果たしたエヴァ初号機。綾波レイが旧作通りの設定ならば、綾波レイの中には「人類の母リリス」の魂が補完されています。
初号機の設定はリリスの唯一のコピー。封印していたリリスの下半身を切り取り、そこから複製して出来たのがエヴァンゲリオン初号機です。
エヴァ破のラストで、綾波レイ(リリスの魂)を取り込んだ初号機(リリスをコピーした体)。
神のコピーだったものが本物になり、初号機はサードインパクトを起こしてガフの扉を開きました。(ガフの扉については後述)
しかし、これもカヲル君によりロンギヌスの槍を用いる事で初号機は封印されました。そこから14年経った話が『エヴァンゲリオンQ』です。
Qとシンでは、エヴァ初号機はAAAヴンダーの動力源として使われていました。
Qではマーク9がヴンダーの指揮系統を取り返そうとしていましたが、弐号機の奮闘により阻止されました。
ゲンドウは、碇ユイと綾波レイの魂が補完されているエヴァ初号機を、どのようにミサト達から取り返すのかという部分も『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の見所の1つです。
ガフの扉って何?
初号機覚醒時や13号機覚醒時に、エヴァの頭上から広がっていく赤黒い光輪。あれがガフの扉です。
ガフの扉とは、魂が生まれ魂が還る場所とされています。
「その扉を開く事によって人類の魂を1つにまとめて、完全な生命体へと生まれ変わろう」
これがゼーレ(NERVの上層組織)の考える人類補完計画です。
その扉を破のラストで開いてしまった初号機パイロット碇シンジ。
正確にはガフの扉ではなくバラルの扉というのですが、意味合いはそこまで変わらないので、ここでは一貫してガフの扉と書かせていただきます。(「エヴァンゲリオン破の設定原画集」より)
旧劇場版のラストではリリスと9体の量産機によって開かれたガフの扉。
トリガーとなった碇シンジの「寂しくて怖くても、それでも他人のいる世界がいい」という願いによって事実上、人類補完計画は失敗しました。
人類の魂は記憶を消され、世界が再構築された世界。それが新劇場版の世界観です。(ただし、神になった量産機の中にいた9体のカヲル君と、魂を機械化していたゼーレ上層部の記憶だけは新世界へと引き継がれた。)
このガフの扉が『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を観るにあたって重要なポイントになります。
『エヴァンゲリオンQ』『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』では誰と誰が争ってるの?
破からQの間では、NERVとヴィレはまだ特に活動をしていません。この間はゼーレvs国連軍vsリリスでした。
国連軍から危険視され、実力行使されたゼーレはインパクトを起こして国連軍を一掃。
しかし、リリスにはゼーレの契約を飲んで貰えなかった。ガフの扉を開くエネルギーは莫大なもの。リリスからしたら、人類補完計画とか所詮下等生物の戯言です。
人類を1つの完全な生命体などにせず、リリスは人間をリサイクルして新しい生命体に変換しようとしました。(これがQやシンに出てくるインフィニティ達の事)
リリスの事実上の契約破棄に対し、ゼーレはマーク6を使い首を刎ね、AAAヴンダーを空にあげるのと同じ要領でNERV本部事リリスの首を空に上げました。
リリスに同調したリリスの子供達(インフィニティ達)も首が無くなり、それがカヲル君曰く、インフィニティのなりぞこないなのです。
そして、リリスの体はトドメをさされないようにドグマに結界を張りました。
そこまでが大まかなQへの流れ。
そしてQでは、自分が神になりたいゲンドウvs人類補完計画を人間の手で遂行したいゼーレvs今の世界を守りたいヴィレvsシンジ至上主義カヲル君が争っています。
結果は、ゲンドウ有利、ヴィレやや追い込まれ、カヲル君退場、ゼーレ退場したものの爪痕は残した。と言ったところです。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』では、ゲンドウvsヴィレの頂上決勝が行われる事でしょう。
Qが終わった時点でのゲンドウ
カヲル君を嵌めてアダムの座から引きずり下ろしたものの、ゼーレはゲンドウが自分勝手な事を起こさない用にシンジをアダムにするよう仕組みました。
特報映像2を観る限り庵野監督の事ですから、あのカットは無意味なものではないでしょう。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』ではとうとうゲンドウとシンジの仲がどうなるかが、描かれます。
以下、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』のネタバレが含みます。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』前半1時間VS後半1時間=希望VS絶望=シンジVSゲンドウ
2時間35分の『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』は前半約1時間を「第3村」で使い、中盤約30分を「ネルフVSヴィレ」に使い、ラスト約1時間を「第13号機VS初号機=ゲンドウVSシンジ」に使いました。
厳密に言えばラスト約1時間の中にはアスカの過去だったり、シンジによるネオンジェネシス、新世紀の創世の儀式も含まれています。
前半約1時間をたっぷりと「第3村」での生活の様子が描かれました。
美しく描かれる水田や農作物、絶望的な世界でも希望に満ちている村の様子が描かれました。
この約1時間は「世界の美しさ」と「シンジが立ち直るための時間」との2つの大切なものを描いています。
映画という虚構の中にある村ではありますが、そこに住む人々が何を大切に思って、何を守りたいと思って生きているのか描かなければなりません。
この虚構の中の世界がどんなに美しいのか?
なぜ尊いのか?
なぜみんな必死になって戦うのか?
「第3村」のシーンは、それをしっかり描写してくれたのだと思います。
個人的に名作だと思うアニメ作品は、しっかりと世界の美しさを描きます。
たとえ、その作品の世界が、残酷で厳しいものでもしっかり描きます。最近でいえば『進撃の巨人』や『メイドインアビス』などもそうです。
何気ない住民の暮らし、おいしいごはん、流れる水の美しさ、木々のざわめき、夕暮れに親しい人と家に帰る時間。
庵野監督の師匠、宮崎駿監督が描く、世界の美しさは神がかってます。
『もののけ姫』では、戦、病、飢え、祟りが溢れた世の中で「森」「人間」のどちらの美しさも描ききりました。
「どんなに残酷で生きていくのが苦しい世界でも、美しいものがある」ということは、そこに住む人々にとっての希望になります。
渚カヲルの「どんな時にも希望は残っている」というセリフは、エヴァや槍のことだけでなく、美しい世界のことも指していると思います。
「世界を美しく描く」というのは序破Qでもやっていましたが、Qではニアサードインパクトが起こったあとの退廃美的な美しさで、「生」を感じるようなものではありませんでした。
「まだ世界には美しいものが残っている。」そう感じることができる環境がシンジには必要だったのだと思います。
希望の象徴、前半約1時間で描かれた「第3村」で立ち直り、大人になったシンジだからこそ、希望の象徴カシウスの槍を扱えたのだと思います。
「第3村」のシーンは、どこを切り取っても尊く美しい
庵野秀明監督は退廃美、というよりも「破壊」を描くのが天才的に上手い監督です。
「風の谷のナウシカ」の巨神兵や「シン・ゴジラ」の東京を火の海にしたプロトンビームは、全てを奪う恐ろしい光ですが、美しくもあります。
壊れた宇宙船や水没した町など、例をあげればキリがありません。
そんな庵野秀明監督が、真正面から描く「第3村」のシーンは、どこを切り取っても尊く美しいものでした。
しかもアニメ的な「盛った」画はありません。写実的に、実際の現実がまるでその世界にあるかのように描かれました。
前半約1時間と後半約1時間は、現実 対 虚構
逆に後半約1時間は、現実の世界にあるものは人間くらいしか出てきません。
結界に覆われた南極、エヴァ、ヴンダー、黒き月、ゴルゴダオブジェクト。全て創作物の中で人間同士が闘います。
前半約1時間では「現実(写実的な絵)」の中に「虚構(黒綾波やアスカなどエヴァキャラクター)」が存在しました。
それが後半約1時間では「虚構(結界に覆われた南極、ゴルゴダオブジェクトなど)」の中に「人間(ラストで現実に飛び出していくシンジやマリ)」がいます。
このシーンでは、ゴルゴダオブジェクトや、マイナス宇宙など、初めて聞くような単語が飛び交います。
しかし、田畑がある村で泥臭く人間臭く生きる人間達の中では、異物のように感じるエヴァキャラクター達も、初めて聞くような用語の中ではエヴァキャラクターだけに人間味、現実味を感じることができるようになっているのです。
こうして現実と虚構がぶつかりあって、混ざりあって抽出されたのが、シンジとマリの現実へ(駅の外へ)と飛び出していくラストシーンだからこそ面白いと思います。
庵野秀明監督作品の『式日』というマイナー映画があり、その中で電車が走るレールは行先が決まっているものの象徴として描かれます。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』では、シンジとマリはレールのある世界(虚構、第三者によって運命が決められた世界)から飛び出していきます。
『式日』で「行先が決まっていて楽なもの」として描いたレールから離れていくのです。
『式日』という映画は、100人中1人に刺されば良いとして造られた作品に対して、『エヴァ』は失敗が許されないビッグタイトルです。(エンドロールの配給の欄にはしっかりと東宝と東映の文字)
このふたつの共通点である、山口県宇部市をラストに持ってくるとは、庵野秀明監督はしっかり終わらせにきたというか、進化した部分を見せてきたのだと思います。
ちょっと話が脱線しましたが、前半約1時間と後半約1時間は、現実 対 虚構という、対になったものだとわかります。
どっちが大人か勝負!?初号機VS第13号機。現実を認められないゲンドウVS現実を受け止めるシンジ。
最終決戦では、ついに初号機と第13号機が対決します。
初号機にはシンジ、第13号機にはゲンドウが搭乗しています。イメージの世界とはいえ、激しい戦いが繰り広げられます。
ここでゲンドウによって、第13号機は希望の初号機とついをなす絶望の機体であること、お互いが同調し、調律をしていることを明かします。
これはゲンドウにとって必要な儀式のひとつだったのです。
調律と言うとまるで『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』のカヲルとシンジが第13号機を動かすために、2人でピアノを弾いていたシーンが連想されます。
「槍」でのぶつかり合いは、あくまでお互いのテンポを合わせるもの。
ゲンドウは、初号機に乗っているシンジと第13号機に乗っているゲンドウの「力がどちらが強いか」は2人の決着の基準にはならないのだと言います。
シンジは「槍」での争いをやめて、ゲンドウと初めて「話」をしようと提案します。
シンジはゲンドウに何を望むのかを訪ねます。
ゲンドウの望みはシンジが旧劇場版で選ばなかった
「全てが等しく単一な人類の心の世界」
「他人との差異がなく」
「貧富も差別も争いも虐待も苦痛も悲しみもない」
「浄化された魂だけの世界」
「ユイに再び会える安らぎの世界」
でした。
TVアニメシリーズの終了後公開された、旧劇場版では『人類補完計画』の結果が描かれました。
地下で保管していたリリスに、全ての人間の魂だけを集約させ、使徒を取り込んだエヴァ初号機と融合させることで、『人類補完計画』はついに達成されてしまいました。
アンチATフィールドの発生は、人間個人のATフィールド(個体を形作る「型」のようなもの)を消し、魂だけにすることができ、その魂を全てひとつにまとめることこそ、人類の補完なのです。(この仕組みは新劇場版のインパクトとあまり変わらない。)
しかし、また世界は再編されました。
リリスと融合し、新しいひとつの生命が生まれ、『未来』の選択は初号機に搭乗していた碇シンジに委ねられました。
シンジは、1つの生命体として生きていくことを拒否しました。
他人といると嫌な思いばかりするのは事実だけど、それでも他人がいる世界をシンジは望んだのです。
こうして世界は、これまでとはちょっとだけ違う世界に再編されました。
ゲンドウはシンジが選ばなかった、「全ての人の魂がひとつになり新生命体として生まれ変わり、その新生命体の中心となる」ことを望みます。
ゲンドウの過去と、敗北
ここからゲンドウの過去が語られます。
「ずっと一人でいたかった。しかし、ユイと出会い他人の素晴らしさを知り、そしてユイを失ったことで一人の辛さを知ったのです。」
ゲンドウの過去が淡々と語られる中、シンジはまるで狂言回しの役目を果たしています。
この狂言回しという表現は「シン・エヴァンゲリオン劇場版:|| パンフレット」緒方恵美さんのインタビューでの表現ですが、まさにその通りだと思いました。
(狂言回しは、観ている人に対して物語の進行の理解を手助けするために登場する役割のこと)
いままでシンジが苦悩する度にでてきた、夕暮れの電車の中でゲンドウに質問を投げかけたり、的確な助言を投げかけます。
幼い子どもの姿なのにどこか大人びていて、皮肉をまじえて正論をぶつけてきたシンジの頭の中のシンジの役として、今度は現実のシンジが、優しさと慈しみをもってゲンドウに接します。
ゲンドウは「他人の死と想い」を受け止められるシンジを大人だと認め、敗北を認めました。
シンジへいままでのことを謝罪し、満足したように去っていきました。
「他人の死と想い」とはシンジにとってはミサトさんのことです。
旧劇場では、ただ泣くことしかできなかったシンジは、今度はミサトの想いを受け止め、自分の仕事を果たそうとします。
ただ悲しみに明け暮れるのではなく、ミサトさん託したこと想いを察し前へと進んでいきます。
それに比べてゲンドウは、ユイの死を受け止めることができませんでした。
事故として語られている「ユイの死=初号機へと取り込まれた」は、実はユイ自身が望んだものです。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』でも語られましたが、神から与えられた、人類に残された未来の選択肢は
- 使徒に滅ぼされて使徒に地球上唯一の生命体として生きる権利譲る
- 使徒を滅ぼし自らが完全な生命体へと進化する(その際「個人」という概念)は消える
このふたつのみです。
人類補完計画やゲンドウの計画は、「2」を選んだ場合の些細な違いに過ぎず、結局は「人類」という存在はなくなり、新しい生命体へと変わってしまうのです。
そうなった場合、人類がいた証を残し、そんな世界でも我が子を守るため、ユイは神が決めたシナリオの鍵となる「エヴァ初号機」に自ら残ったのです。
そんな世界(ゲンドウも含む)や我が子に対するユイの想いをゲンドウは受け止めることができませんでした。
ゲンドウは子どものように現実から逃避し、悲しみに明け暮れ、シンジと向き合おうとしませんでした。
大人に愛されてこなかったゲンドウは大人にはなれなかったが、シンジを大人にすることはできた
現実を受け止めきれないゲンドウに対し、シンジは父であるゲンドウだけでなく、アスカをも救済することができました。
初めて自分を好きになってくれた人、好きになった人を救い、だからといって自分といることを強制せず、ケンスケのもとへと見送ることができました。
つまり、シンジの方がゲンドウより大人になったということです。
初めての人と笑顔で別れることができた人間と、別れを認められず、見送ることすらできなかった人間。
ゲンドウは最後までシンジにユイの代わりかのように弱音を吐いてしまいます。
シンジはアスカを見送ることとで初めてゲンドウの「望み」に気がつきます。
「父さんは母を見送りたかった、死を受止めたかった。」のだと。
大人に愛されてこなかったゲンドウは大人にはなれませんでしたが、シンジを大人にすることはできたのです。
それこそがゲンドウにとっての唯一の救いとなり、シンジと和解することで、シンジとのATフィールドが消え、初号機の中のユイと再開することができました。
シンジと理解し会えたことで、初号機の中にいるユイと再会できました。(シンジのATフィールドがユイとの再会を隔てていた。)
シンジは本当に大人に成長したと思います。散々ガキと言われてきましたが、ちゃんと成長を観客にみせてくれました。
しかし、シンジが大人になるためには、ゲンドウの存在は必要不可欠だったと思います。
初めての人との出会いと別れ、人の死、父への反発と理解、社会での自分の立ち位置。
作者の想いがにじみでているんじゃないかと思うほど、観ればみるほどリアルな成長を描いていると思います。(というかわざとにじみ出してると思う。)
シンジの青春は、使徒との戦いという非現実的なものですが、非現実的なものの中でも変わらない現実的な葛藤が描かれます。
社会現象となった頃のエヴァンゲリオンが伝えたかったことと同じ、普遍的な少年が大人へと成長していくというテーマは現代にも通じるものだと思います。
ここまで、読んでいただいて本当にありがとうございました。考察や解説の1つだと思っていただけますと幸いです。
今回はゲンドウをピックアップして考察する形になりましたが、アスカやマリ、他のエヴァキャラクターについても考察や解説をやっていきたいと思うので、今後ともよろしくお願いします。