三木聡氏が監督・脚本を務め、公開前から大いに期待されていた『大怪獣のあとしまつ』。
皆さんはいかがだったでしょうか。
公開初日から、インターネットを大騒がせしているように見受けられます。
本記事では、良かったところ含め、「なぜ酷評が多くなってしまったのか」「監督は何をしたかったのか」について考察していきます。
目次
シン・ゴジラを期待していた観客と特撮コメディが作りたかった監督。
SNSや大手映画レビューサイトを除くと、批判的な意見が多数を占めているように思います。
肯定的な意見は怪獣のデザインに対するものくらいです。
批判的な意見の代表として「リアリティがない」というものが多いようです。
本作のキャッチコピーは
「誰もが知る”巨大怪獣”の、誰も知らない”死んだ後”の物語。」
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— 映画『大怪獣のあとしまつ』公式 大ヒット上映中! (@daikaijyu_movie) February 23, 2022
「怪獣の死体処理」「ヒーローが怪獣を倒した後」という新しい視点を描くことに挑戦した本作は、その意外性から予告公開当時から大きく期待されていました。
予告では、怪獣の死体処理をめぐって錯綜する政府関係者や国民の様子が全面に押し出されており、“現代に怪獣が現れたらどうなる?”という視点は『シン・ゴジラ』にも通じる部分がありました。
そして本編では、責任を押し付け合う政府関係者、未知の新生物を巡る国家間の思惑、怪獣死体付近の国民のリアルな生活が綿密に描かれる…
のかと思いきや、画面で繰り広げられたのは安いコメディでした。
そもそも監督が作ろうとしていたものは、特撮ブラックコメディであり、怪獣の死体処理を題材に風刺やパロディを盛り込んだ笑いあり感動ありの作品を作ろうとしていたのです。
ただ、予告や広告が誇大表現になってしまうのは、他の作品にも言えることです。
人が来ないことには、何も始まりません。つられてきた観客も本編の出来が良ければ満足できるはずなのですから。
わかりにくいギャグシーンと笑えないギャグシーン。
ギャグがあるならあるでいい。しかし、どんなシーンを“ギャグ”にできるかがポイントです。
観客が求めていたのは『シン・ゴジラ』のようなギャグです。(ギャグというかフッと笑えるようなポイント)
例えば『シン・ゴジラ』の劇中、自衛隊がゴジラに攻撃する際、官僚に現場の避難がちゃんと完了しているかどうか確かめるシーンがあります。
そこで官僚は、首相にたいして「私は現場の判断を信じるだけです。」というYesともNoとも言わない返事をします。
「いざ攻撃が始まって民間人が巻き込まれた時の責任を負えない」といういかにも政治家っぽい言葉選びの上手さが、リアルでありながらも面白いポイントでもあります。
しかし、『大怪獣のあとしまつ』で描かれた政治家っぽさは、バカにしているだけのようにしか見えませんでした。
責任をあからさまに押し付けあったり、グダグダ世間話をするシーンを入れたり、「これ日本の政治家っぽいでしよ?」という造り手の思惑が透けて見えてくるようで面白くありません。
もはや政府関係者が会議するシーンは、風刺を通り越してふざけているようにしかみえません。
上記で例に出した『シン・ゴジラ』のシーンも、政治家の責任逃れの上手さを皮肉りつつも、「民間人がいるかもしれないけど、いまゴジラに攻撃しなければ何もかも手遅れになってしまう」という国全体を考えた、政治家という立場なりの思慮深さを感じることもできるのです。
それに比べ『大怪獣のあとしまつ』では、裏を読めるようなシーンがなく、伏線も人間関係も浅いものばかりでした。
これがただのコメディだったらもしかしたら許されたのかもしれませんが、『シン・ゴジラ』をパロディの射程圏内に入れてしまったからこそ、観客はどうしても両者を比べてしまいます。
放射線や汚染物質、外交関係のネタなど、面白いと思ってはいけないのに、つい面白いと思ってしまうのが加減のいい風刺です。
しかし『大怪獣のあとしまつ』では、人死や避難という、まじで面白くしちゃいけないシーンで、笑えない冗談をぶっこんでくるのが、本当に“キツい”と思ってしまいます。
『大怪獣のあとしまつ』と他の特撮作品で決定的に違うのは特撮にかける熱量
それでは『シン・ゴジラ』と比べるのが間違いであり、視点を変えて、最初から特撮コメディとして観れば面白かったのでしょうか?
確かに『シン・ゴジラ』は今までの怪獣映画と一線を画していました。
それでは『シン・ゴジラ』と比べるのではなく、平成ゴジラ・ガメラシリーズや過去の昭和特撮作品と比べるとどうなのでしょうか。
もともと昭和、平成の特撮映画は、ギャグやどう見てもギャグにしか見えないようなシーンが多かったです。
「ギャグシーン」とは、当時流行していた1発ギャグや社会問題を風刺したものなど、「ギャグにしか見えないシーン」は、あからさまに当時流行したドラマや映画のパロディ、リアリティの低い表現のことです。(例:ターミネーターっぽい未来人ネタ、なぜか人間の形をしている宇宙人など)
実際、過去の特撮作品と比べるとやってるギャグやネタ、パロディのレベルはそんなに変わらないと思います。
正直、俳優の西田敏行さんの演技をみていると古き良き昭和映画っぽさを感じることができて、そこは面白いとも思えました。
そもそも怪獣がなぜか島国の日本だけ襲うという、設定自体ギャグみたいなもんなのです。
ただ、『大怪獣のあとしまつ』と他の特撮作品で決定的に違うのは特撮にかける熱量です。
『大怪獣のあとしまつ』にでてきた怪獣“希望”は死体なのに凄くかっこよかったです。
腐敗の演出の片足を上げているという死後硬直の表現も、放置された生き物の死骸感がよくでています。
そしてその特撮モノの撮り方もめちゃくちゃばっちりキマってました。大きさの表現、怪獣の肌、肉質がよく伝わってきました。
それもそのはずで、怪獣を造形したのは平成ゴジラ、モスラ作品にも参加したレジェンド若狭新一さんです。(特撮フィギュア好きが一度は目にする名前)
その怪獣という最高の異物を効果的に監督が補完することで、観客をアッと言わせることができるのです。
しかし、三木聡監督がやったのは演出ではなく、ただの“放置”です。
防護服もろくに着ないで怪獣の死体を調査したり、ただリアリティがないだけの演出をコメディとして写していました。
これでは、どんなに良いものでも腐ってしまって当然です。
そして、その他の特撮っぽいシーンの数々にも残念なところは多かったです。
冷凍作戦シーンの主人公のセリフはよかったです。「冷凍みかんが溶けるとぐじゅぐじゅになるのを知らないのか?」というセリフは個人的にもかなり好きです。
怪獣という虚構を、誰しも経験したことがあるような事で例えたりすると、観客は身近に感じることができます。
単純ですが、こういう特撮っぽさが面白い部分でもあります。
ただ、そのクールなセリフに周りの登場人物達がいちいち反応したり、ツッコんだりするから「洋画みたいな小粋な会話したいのかな?」と観客も冷めてしまいます。
私が好きな特撮作品の一つである平成ガメラシリーズの中でこういうセリフがあります。
「トキは人を喰いませんよ」
これは劇中に登場した怪獣を保護しようとする危機感のない学者に対して主人公が放った台詞ですが、クールにきまっています。
このセリフは、グダグダした怪獣対策会議の方向をバシッとキメるセリフである上に、場面転換で使われることでよりセリフの爽快感が際立っています。
セリフに対して周りは反応しなくていいし、言い負かされてだまっちゃうくらいでいいんです。
「怪獣に対するセリフ」という非日常的な言葉を、いちいち解説せず、一言で済ませるぐらいでないと観客の熱はどんどん冷めていってしまいます。
怪獣作品では、怪獣という虚構をいかに観客に信じてもらえるか、違和感なく受け入れてもらえるかが重要であると思います。
それを一言で終わらせればいいギャグをわざわざ“ギャグシーン”にしていちいち長引かせるから、観客の熱は冷めていきます。
結果ギャグシーンばかりでリアリティがなくなり、ふざけているようにみえてしまうのです。ギャグをやるなら他のシーンはとことん真面目にやらないといけないんです。
あの『シン・ゴジラ』でさえ、ゴジラが生まれた理由は、割と大雑把にしか説明されていません。
「太古から生き延びた生物が放射性物質を食べて超進化した、もしかしたら人為的な意図があるかも?」という理由がついていますが、正直リアルかどうか問われるとリアルとはとても言えません。
しかし、そういった大きな大きな虚構を観客に鵜呑みにしてもらうためにも、ギャグや怪獣のシーン以外は完璧に真面目にやらなければいけないのです。
『パシフィック・リム』『怪獣8号』で既に描かれている“怪獣の死体処理”
これを言ってはおしまいかもしれませんが、そもそも怪獣の死体処理は新しい発想ではありません。
確かに、ウルトラマンのような作品では、怪獣は爆発したり倒しても次の回には死体がなくなってたりします。
しかし、他作品ではそこに言及しているものも多くあります。
漫画『怪獣8号』でも、主人公の職業は怪獣の死体処理であったり、ギレルモ・デル・トロ監督の『パシフィック・リム』も怪獣の死体処理に関して詳しく描写されていました。
怪獣の死体があるかぎり、近隣住民の生活は変化したままだったり、腐敗臭や汚染を気にする描写も多くあります。
その「怪獣の死体処理」をメインテーマに持ってくるからには、今までの怪獣の死体処理を描いてきた作品を包括するような、上回るような作品であって欲しかったです。
現実はそのどれよりリアリティがなく、笑いもない、結局死体処理もできないオチになってしまったのが残念です。
特撮というジャンルはマニア向けだったのか?
怪獣のデザインや造形が良かっただけに、目が肥えた観客を呼び込んでしまったのが大スベリの原因かもしれません。
過去の特撮作品を期待した観客は、特撮愛のない熱のない演出に冷めてしまい、『シン・ゴジラ』を期待した観客には、そのリアリティのない演出で期待を裏切ってしまいました。
ただ、それは全て観客の勘違い。監督には「これはコメディ映画だから」という言い訳もできます。
しかし、監督は『シン・ゴジラ』と比べないで欲しいと思っているのでしょうか?
三木聡監督は明らかにシン・ゴジラやウルトラマンのパロディを入れ込んでいます。それらを風刺しているのです。
筆者は、ここになにか意図があるのではないかと思いました。
『大怪獣のあとしまつ』という作品は、庵野監督に対する反骨精神?
庵野秀明監督は『ゴジラ』や、次は『ウルトラマン』『仮面ライダー』を日本の名作品をどんどん取り込んでいきます。
特に『シン・ゴジラ』は完成度が高く、従来の特撮ファン、ゴジラファンのみならず、様々な世代の人達からの高評価を受けました。
しかし、逆に言ってしまえば、昔の特撮を知らない世代からすると『ゴジラ』は庵野監督のものになってしまったとも言えます。
過去の特撮作品も良いところは山ほどありますが、それとは別に政治の描写やシナリオの完成度、伏線、設定の綿密さはシン・ゴジラには勝てません。
それは『シン・ゴジラ』は過去の作品があったからこそ、できた作品だからです。
全ての特撮作品のよかったところ、改善点を庵野監督の頭の中で補完した作品こそ『シン・ゴジラ』なのです。
だからこそ、これまでの日本の怪獣映画は死んだと言っても過言ではありません。
ウルトラマンのように対象年齢を意図的に下げたり、玩具などのメディアミックスした作品や海外のようにド派手な演出と、ユニバース作品のような、お祭り映画でないと太刀打ちできなくなってしまいました。
リアリティや人間対怪獣を想定する真っ当なゴジラ映画や怪獣映画は、現代の人間の生活様式が変わるさままで表現した『シン・ゴジラ』には勝てません。
『シン・ゴジラ』は最高だった。故に日本の怪獣映画は死にました。
そこに三木聡監督は一石を投じたかったのではないかと思いました。そうすると最後のウルトラマンのオチも理解できます。
普通の人間では結局、怪獣を倒すことも、死体を処理することも出来なかったのです。
これは今の特撮界のはお前だ!くらい言ってみせろ!
と思っていましたが、それは直接的すぎるから、ラストの演出に落ち着いたのかもしれません。
もともと特撮作品は当時の流行りのネタ取り入れたり、しょうもない下ネタがあったりしました。
しかし、それを許さない世の中にしたのは、やっぱシン・ゴジラなんです。
監督はこれがダメ映画になったって途中から気がついてたような感じもします。パンフレットでは、途中から俳優の各演技に任せるようにしたというような発言があります。
俳優の各演技に任せるから、とっちらかっていたのではないでしょうか。片方は釣りバカをやってて、もう片方はシン・ゴジラをパロディしてるようにも見えてしまいました。
そういうところも含めて、徹底的に俳優の演技を強制させた庵野監督とは真逆です。
曲解かもわかりませんが、この映画『大怪獣のあとしまつ』という映画全体が、『シン・ゴジラ』ではなく『ゴジラという大怪獣を殺してしまい、次はウルトラマンまで持って行ってしまう庵野監督』に対する風刺の映画だったのではないでしょうか。