今回は『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』の終盤をのシーンを解説していきます。
序盤、中盤の解説記事を読んでからのほうが、本記事を楽しめると思います。
序盤解説
中盤解説
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を最初から最後まで、ストーリーを追って解説、考察していこうと思います。
今回は物語中盤、特に「ヴンダー内部の様子」について語っていきたいと思います。特に2回目行こうと思ってる人におすすめです。
目次
- ヴンダーVSオップファータイプ戦艦VS戦艦は惑星大戦争の曲が。
- やはり、アスカの中には使徒がいた。
- 第13号機に取り込まれる新2号機。そしてシンジVSゲンドウの最終決戦へ。
- 「さようなら全てのエヴァンゲリオン」は「さよならジュピター」のオマージュか?
- マリは現実世界の住人か?最後のオマージュ「テイクオンミー」
※既にした解説、考察や説明する都合上、省いているシーンがあります。
目次
ヴンダーVSオップファータイプ戦艦VS戦艦は惑星大戦争の曲が。
中盤解説の記事では、艦内放送が凝ってて面白いという話しをしました。
この記事は、前回の中盤記事からちょっと間を置いて書いてますが、その間にまたシンエヴァ観てきたんです。
アスカとマリとシンジが最終決戦前に会話するシーンがありますが、艦内放送で新2と改8のエントリープラグの準備まで120秒かかるとうっすら聞こえてくるんです。
で、数えてみるとアスカとマリとシンジの会話はちゃんと120秒(だいたい)で終わってるんです。
いやー凝ってるというか何回みても面白いと思いました。
シンジ達の会話が終わるといよいよ最終決戦です。
種子補完ユニットを射出すると、いよいよヴンダーは最終決戦の地、南極(NERV本部)へと発進していきます。
ここからヴンダーとオップファータイプ搭載型二番艦達との戦いが始まります。
ここではもうすでに有名になってますが、「惑星大戦争のテーマ」が流れます。
戦闘シーンは似てるとは感じませんでしたが、オップファータイプ搭載型二番艦の登場は、『惑星大戦争』に登場する「金星大魔艦」という、敵戦艦が雲海から姿を現すシーンにちょっと似ています。
「惑星大戦争」という作品は「STARWARS」に登場するチューバッカのニセモノみたいなのが出てきたり、宇宙服がほぼ「2001年宇宙の旅」の宇宙服だったりと、人間シーンは個人的にはそんなに好きではありません。
しかし、特撮はなかなかのもので、戦艦が地面スレスレを飛んで土煙をモクモク上げて飛ぶシーンはほんとにかっこいいです。
登場する主人公戦艦の「轟天」はデザインが「海底軍艦」の轟天号の流用です。
しかし、軍艦の横にはリボルバーの弾倉シリンダーのようなパーツが付いていて、そこからはなんと戦闘機を弾丸のように射出するという面白い構造をしています。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』では、ヴンダーという大きな戦闘機が、逆に戦艦を誘導弾といってまるでミサイルのように射出していました。(戦艦とあるが形は翼があるデザイン)
戦艦も戦闘機がミサイルを搭載するような場所につけられていて、これには特撮ファンも思わずニヤリとしてしまいます。
オップファータイプ搭載型戦艦の砲塔部分は、パンフレットの資料をみると取り外しできるようになっているみたいで、
もしかしたらあの特徴的な丸いフォルムは、『惑星大戦争』に出てくるヘルファイター(まん丸のUFO戦闘機)のように独立して戦闘ができるのかも知れません。
庵野監督のオマージュは、監督自身が過去に作品を観て感じたであろう衝撃を、今の世代にも響く新しい形にして伝えてくれていると思います。
やはり、アスカの中には使徒がいた。
ヴンダーはとうとうエヴァの投下位置へと到着します。
ヴンダーからは新2と改8が投下され、向かってくるエヴァ7シリーズを撃破しながらNERV本部へと降りていきます。
エヴァ7シリーズの頭にはドクロがついています。
おそらくこのドクロは『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』の第13号機と改二が戦った場所に落ちていたものと同じだと思われます。
7シリーズはエヴァといっても所詮は量産機で、新2と改8にばったばったと倒されていきます。
NERV本部に到着して新2が第13号機に強制停止プラグを打ち込もうとするも、新2自身のATフィールドによって打ち込むことができません。
これは後のゲンドウがシンジに怯えてしまう伏線か?
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』でもATフィールドの正体が心の壁であると、TVアニメ版同様に終盤になって明らかになります。
今思うと、TVアニメ版でカヲルにシンジがプログレッシブナイフを突き立てれなかったのってシンジ自体のカヲルへの恐れがあったからでは?と思うと面白いですね。
カヲルはシンジに殺されても、それはそれで良しとしており、TVアニメ版での戦いの最後では、シンジがカヲルをちゃんと自分の手で見送りたいと思ってからやっと攻撃できたのかもしれません。
その時はエヴァの手でも掴める。
逆にシンジはカヲルを失うことを恐れていました。(漫画版だとわかりやすい)
話が逸れましたが、どうしても第13号機へ対する新2自身の恐怖のATフィールドが破れないアスカは、使徒の力を使い、ATフィールドを中和することで自分のATフィールドを破りました。
「アスカの中に使徒居る説」は様々なメディアで考察されているため、「あーやっぱりか!」となりましたが、実際に観ると使徒化する新2号機はめちゃくちゃかっこよかったですね。
たくさんの考察が溢れる中で流してしまいがちですが、実はアスカが使徒を体内に宿していたという事実が明らかにされたことで、納得できることがひとつありました。
それは「アスカ裸隠さなさすぎ」ということです。ふざけてませんよ。
「第3村」でアスカは常に裸でした。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』ではあんなに恥ずかしがっていた裸をケンスケにもシンジにも普通にみせます。
これは、プラグスーツをあまり使いすぎないようにしているという理由もあるかと思います。(スーツを使いすぎて、効力がなくなると、黒綾波のように個体の形を保てなくなり、L.C.Lになってしまうのかも)
もしくは、裸が恥ずかしくない=処女ではない(ケンケンとやることはやってる)=シンジよりも先に大人になった。
つまり、シンジ(童貞)のヒロインではなくなった、という作り手の「大人になる」という意味のメタファー的な理由かと思っていました。
しかし、理由は他にもちゃんとあったのです。
そもそも人間がなぜ裸を恥ずかしがるかというと、知恵の樹の実を食べて、他人との違いを理解できるくらいの知恵をつけたからです。
裸を恥ずかしがるというのはいうなれば人間の証拠というわけです。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』で登場した、雌雄もなく純粋な魂だけで作られた穢れなき生命体「アドバンスド・アヤナミシリーズ」も裸を恥ずかしがることも無く、知恵すらも感じさせないほど無気力に見えました。
おそらくこの「アドバンスド・アヤナミシリーズ」というのは、知恵の樹の実を食べる前の、人間という存在になる前の生命体といったところでしょうか。
その反対に、アスカは知恵の樹の実を食べた人間でありながら、生命の樹の実を食べた使徒を取り込んでいるというわけであり、知恵の樹の実だけをもつ人間とはちょっと違う存在になっていると思います。
それは神のような存在ではなく、あくまで体の主導権がアスカにあるだけで、使徒が体に同居しているという感覚かもしれません。
その証拠に小型の封印柱を体に刺しているから抑えていただけに過ぎず、封印柱を抜いたアスカは使徒化してしまいます。
使徒の意識(知恵がない存在)がアスカの精神に少なからず影響を与えていたのではないかと思います。
この後、ゲンドウによって使徒の地位を奪うと知恵を失うことも語られています。
そんな人間離れした存在になっていたアスカですが、シンジとゲンドウの最終決戦が終わり、エヴァや使徒から開放されたアスカは本来の歳を取り戻し、裸を恥ずかしがるようになっていました。
つまり、人間性を取り戻せたということになるでしょう。
第13号機に取り込まれる新2号機。そしてシンジVSゲンドウの最終決戦へ。
アスカは第13号機に負け、第13号機に取り込まれてしまいます。
やはり、13番目のエヴァには勝てない宿命なのでしょうか。
はね飛ばされた新2の生首の構図が、旧劇場版の弐号機と同じ構図なのがちょっと面白いです。
そして、序盤解説記事でも語ったエヴァキャラクター達の言い争いが終わると、シンジVSゲンドウが始まります。
決戦の場所はマイナス宇宙のゴルゴダオブジェクトへと移ります。
ゴルゴダオブジェクトとはそもそもなんなのか?
実はこのゴルゴダオブジェクト自体は『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』のフォースインパクトの際に、第13号機の頭上にすでに現れていました。
そしてこの元ネタはおそらくウルトラマンエースのゴルゴダ星だと思われます。
ゴルゴダ星とは『ウルトラマンA』第13話と第14話に登場する、ウルトラ兄弟が処刑のために磔にされた星です。
ゴルゴダ星は、マイナス宇宙(別次元)にあるとされ、光の速度を超えることでしか行くことができないとされていました。
そして、名前の元ネタはキリストが磔にされたゴルゴダの丘です。
ちなみに処刑=斬首の概念から、ゴルゴダの丘は、されこうべの場所とも呼ばれており、エヴァ7シリーズが溢れてたりするのはそのせいか?とも考察できます。
ウルトラマンエースといえば、ウルトラシリーズではじめて2人が合体して変身するウルトラマンでした。
第13号機がダブルエントリーなのとなにか縁がありそうです。(1人でも動けちゃうガバガバ設定なところとかも案外似てる)
ちなみに、ウルトラマンエースにキリスト教由来の言葉が出てくるのは脚本家の市川森一さんがクリスチャンだからなんですが、庵野監督もそうというわけではありません。
そして形の元ネタは漫画家、星野之宣氏の「Quo Vadis(どこへいかれるのですか?)」です。
「Quo Vadis」という言葉はQuo vadis, Domine?(主よ、どこへいかれるのですか?)という『ヨハネによる福音書』の聖ペテロが、キリストに投げかけた言葉です。
星野之宣氏の「Quo Vadis」は、宇宙から接近してくる巨大な十字架の正体に迫るSF漫画です。
実はその十字架とは不変不動の存在であり、宇宙の方が動いていたことがわかります。
「絶対的なもの=神に等しいもの」をみつけてしまった人類の行方「Quo Vadis(どこへいくのか?)」を問うという物語です。
不変不動のものを神と考えるのは、人間が天動説を信じていたことから、古くからある考えだとわかります。
昔の一部の宗教家達は、神が創った地球が宇宙の中心であり、天体が周りを回っているのだと考えていたわけです。(天動説の考え方は他にもいろいろあるので調べてみると面白いです。)
新世紀エヴァンゲリオンのデザインを務めた山下いくと氏も星野之宣氏の漫画が、7〜80年代オタク達へ影響を与えたことを語っています。
庵野監督も少なからず、というかモロに影響を受けた世代だと考えられます。
星野之宣氏のみならず、あの世代の漫画家、小説家の方々は一騎当千の伝説の人ばかりの世代です。どの作品も後世への影響が強いです。
他にも星野之宣氏の「巨人たちの伝説」という作品には、プロメテウスという惑星間巡航船が出てくきますが、翼にパラボラアンテナがついてるところなんかヴンダーに似ている部分があります。
庵野監督が影響を受けたり、学んだりした作品は多くあると思いますが、このゴルゴダオブジェクトとは、宇宙の中心、つまり庵野監督を作り上げてきたもの達の中心部なのではないかと思います。
そして、シンジとゲンドウはゴルゴダオブジェクト内部で戦います。
以前の記事でシンジVSゲンドウの戦いについては書きましたのでぜひ読んでいただけると嬉しいです。
シンジとゲンドウは和解し、カヲルはゲンドウがNERVから雲隠れしていたときに司令をやっていたことがわかりました。
そして第13号機はゲンドウのエヴァであり、カヲルのエヴァであることも明かされました。
カヲルもゲンドウもピアノが好きであり、カヲルはゲンドウの現身のような存在であったことが感じられます。
本予告で公開された第13号機の姿が、カヲルの初登場時の格好をしていることが話題になっていて、自分もモヤモヤしていましたが、スッキリした気分です。
ラストでカヲルと綾波らしき人物が、電車の向こうにいますが、この2人はカヲルと綾波であり、若かりし日のゲンドウとユイなのではないかと思います。
終劇:「さようなら全てのエヴァンゲリオン」は『さよならジュピター』のオマージュか?
これもまたすでに有名ですが、ラスト終盤も終盤、シンジとゲンドウ、アスカが和解し、シンジがマリと再開するまで流れていた曲は、映画『さよならジュピター』のテーマ曲「VOYAGER〜日付のない墓標」です。
しかし、コーラスは松任谷由実ではなく林原めぐみバージョンです。
これがまためちゃくちゃかっこよかったというか感動しましたね。
『さよならジュピター』の影は「さようなら。全てのエヴァンゲリオン」というセリフが、予告で公開された時からありました。(『さよならジュピター』にも「さよなら、ジュピター」というセリフがある)
そして『さよならジュピター』にある「宇宙全体の宿命に対してささやかなハング・アップ」というセリフ(小説版のみにあるセリフだったかも)に似た、
「神へのはかないレジスタンス」というセリフをゲンドウが言ったあたりから怪しくなり、「日付のない墓標」が流れた時点で確信になりました。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』では「日付のない墓標」のアレンジバージョンが流るのですが、かっこよすぎましたね。
「日付のない墓標」は『さよならジュピター』のエンディングとして流れるんですが、めちゃくちゃかっこいい間奏の部分で、曲がぶつ切りにされてるんです。
そこを気持ちよくフルで綺麗な映像と、成長したシンジの後ろ姿とともに聴くとほんとに泣けてきそうになりました。
『さよならジュピター』の監督である小松左京氏は前述の『惑星大戦争』の監督依頼もあったので、この「縁」を庵野監督が繋いだことになります。
終わりに。マリは現実世界の住人か?最後のオマージュ「テイクオンミー」
シンジとマリが実写に飛び出していくシーンの前、マリが砂浜に座るシンジの元へ駆けつけてくるシーンがあります。おそらくここの元ネタは『a-ha』の「Take on Me」(ミュージックビデオ)だと思われます。
オマージュというか、「現実と虚構」が混じり合う系の作品においてこれの影響を受けてない作品はありません。
砂浜で体育座りしているシンジが、アニメっぽい絵、ロストスコープっぽい鉛筆で描いたような絵、そしてシンエヴァの実写っぽい絵になるシーンがあります。
これは実際「Take on Me」(ミュージックビデオ)を観てもらえればわかると思いますが、めちゃくちゃ似ています。
ミュージックビデオを観たことがなくとも、曲だけなら聞いたことあるあると言う方も多いと思います。間違ってもスパイダーマンが並んで踊ってるものがミュージックビデオだと思わないように気をつけてください。笑
監督達も『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』でVFXやロストスコープを強く意識して使用していることから最後の最後にこのオマージュを入れてきたのだと思います。正直胸熱です。笑
しかし、これがただのオマージュかと聞かれるとそうではないのかもしれません。
実はマリは現実からシンジを救いにいった存在なのではないでしょうか?
マリといえば、アスカというヒロインのことを姫と呼び、初登場の時から「エヴァに乗りたい」「ずっとエヴァに乗ってみたかった」と繰り返し言っていました。
それはまるで、「エヴァ」という作品が大好きな女の子のようです。
これはメタ的な設定ですが、「エヴァ」という作品がただのTVアニメ版の繰り返しにならないように投入されたのがマリというキャラクターです。
カヲルと会話するシンジのセリフにあったようにシンジはあの世界を何度も繰り返しています。
生命の書とは漫画のキャラクター紹介文や映画のクレジットのようなものだとして、マリはその中で苦悩するシンジを救いに行った現実の女の子ではないでしょうか?
『テイクオンミー』では主人公の現実世界にいる女の子が、漫画の男の子を実写世界に連れ出すことで救っています。
そう考えると、よくマリが庵野監督の妻、安野モヨコ氏を題材にしていると言われているのも納得できる気がします。
エヴァを創り完成させないといけないという使命とエヴァが日常につきまとう日々、そして「エヴァ」から開放される日までの日々を共にした妻が、「シンジをエヴァから救いに来たマリ」に重なってしまうのはしょうがないのかも知れません。
ほんとに『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』は最初から最後の最後まで綺麗にまとまっていると思います。
伏線回収をして、観客が予想出来なかったような画を観せてくれて、考察の余地も残してくれる、本当に最高のアニメ映画だと思います。それではまた次の記事で。